過去の職場&就職体験記 (1)大企業での地獄−10
番外編「産業論文・あすの企業を考える」
(1997年5月22日執筆)
「あすの企業を考える」
〜企業における労働時間短縮のススメ〜
一、失われた自己実現
企業に勤める以上、諦めなくてはならないことがある。それが「自己実現」であると、私は最近考えるようになった。勿論、皆が皆諦めている訳ではない。割合の問題を言っているのだ。
特に大企業においては、大勢の人間が莫大な利益を生み出すべく、一つの目標に向かって効率良く働く。業務内容が細分化し、単一化するのは仕方のないことだ。メーカーであれば、商品を企画する人、作る人、売る人、管理する人、と言った具合に、一人の人間が携わることが出来る業務は一時期に一種類だ。割り当てられる業務が自分の希望と一致するとは限らない。むしろ、現代日本のサラリーマンにおいて、「やりたいこと」をやっている人間が一体どれだけいると言うのか。
私達はやりたい仕事をするために大学へ行き、就職活動を通じて会社を選ぶ。しかし、昨今の就職状況を見れば、学生にとって「希望の会社に入社する」のはあくまで理想であり、現実は「就職をするのが目標」といった状況にある。運良く希望の会社に入社できたとしても、思い描いていた希望と、今後の現実が一致するとは限らない。例えば、車が好きだからと言って、自動車メーカーに勤めたとする。車好きの人間は、車を組み立てることも好きだろうか? 車を売ることも好きだろうか?
大企業の恐ろしさは、仕事の幅が広すぎて、入社後の業務内容の予測がつかないことにある。「会社を選んで入社したんだろう?」と訊かれても、蓋を開ければ一概に頷くことが出来ないケースが多々あるのではないだろうか。会社を選ぶことは出来た。しかし業種は選べなかった。そう思っている人間は、決して少なくない筈だ。勿論、大企業にはメリットがある。安定した収入、安定した生活、明日への見通し。全員とは言わないまでも、多くの人が、これらを得るために何かを失っているのは確かだ。そして、失ったものこそ、「自己実現」なのである。
自己実現とは、大袈裟に言えば「生きる意味」であり、「私は〜のために生きているのだ」と言えるべき対象を指す。仕事が生き甲斐、仕事が趣味、という人達は、仕事を通して自己実現をしていると言える。しかし、仕事を通じて自己実現している人間は、決して多くない。企業人になれば尚更のことだ。希望の会社に入社できただけでも運が良い、というご時世なのだから。
では、希望の業務に就くことが出来なかった人達は、何のために働いているのか。それは生きるためである。生きるために必要な収入を得るために働いているのだ。では、私達は何のために生きているのか。そこで、話は元に戻る。私達は自己実現をするために生きているのだ。
仕事が生き甲斐という人も多くいるが、私はその内の半数以上を疑っている。生き甲斐を見付けるのは容易なことではない。仕事が生き甲斐というのは、ある意味、逃げであると思う。与えられたことを生き甲斐としてしまえば、こんなに楽なことはないのだから。
一方、仕事では自己実現をすることが出来ないと考える人達は、プライベートで自己実現を果たす。ここで問題になるのが、サラリーマンは自由になる時間を持っているのか、という点である。自己実現を果たすためには、自分の時間(余暇)が必要不可欠だ。
二、労働時間短縮の必要性
今日、我国の一人当たりのGNPは、世界最高の水準に達し経済大国の地位を確立し、賃金についても、ほぼ欧米主要国並の水準となっているが、一方、労働時間については、欧米主要国に比較すると年間二〇〇〜五〇〇時間程度長い。労働時間の短縮により、国民一人ひとりが「ゆとり」のある生活を送ることが重要な課題となっている。
朝起きて、会社へ出勤して、夜遅くまで残業して、ようやく家へ帰って寝て、また次の朝起きる。これは先進国の人間の暮らしではない。労働時間の短縮により、余暇生活を充実し、家族との触れ合いの機会を増し家庭生活を豊かにしなければならない。ゆとりのある生活は、人の心を穏やかにし、私達をより人間らしくするだろう。
時短は我が国の経済的地位にふさわしい豊かな国民生活を実現し、ゆとりあるライフスタイルの定着を促進するために不可欠なものであるとの認識も、以前に比べて強まっている。しかしその一方で、生きるために働くのではなく、働くために生きているかのようなサラリーマン人口は一向に減らない。日本は依然として「生活後進国」なのである。
企業は、社員を「企業人」として扱う前に「社会人」として扱うべきである。私達は社会人であり、企業の利益に貢献するだけでなく、社会にも貢献して生きていかねばならない。そのためには自己実現をして自らを磨きあげ、社会の一員であるという自負と誇りを持つ必要がある。社会人としての活動を積極的に展開させるためには、労働時間の短縮は不可欠なのである。
現在では約九割の企業が何らかの週休二日制を導入している。労働時間は確実に時短の方向へ進んでいると言える。しかし、ゆとりある生活の実現には未だ程遠い。九二〜九六年にかけて行なわれた五ヶ年計画は、年間労働時間一八〇〇時間達成を目指していたが、この計画は通常の企業において残業を全くしない場合でしか達成できない。(参考までに九五年度平均労働時間は一九一〇時間) この目標を達成できた企業は、一体どれだけの割合を占めると言うのか。
法定労働時間の短縮やフレックスタイム制の導入、みなし労働時間制の導入や有給休暇をはじめとする休暇制度の充実。あらゆる角度から、労働時間の見直しはなされつつあるのは確かだが、これらの制度は有効に使われていなければ意味がない。
フレックスタイム制は、上手く使えば時間を有効活用できる画期的なシステムだが、実際には「遅く出社して遅く帰宅する」という時間のズレを引き起こしただけだった、という例もある。これは、「仕事を早く仕上げて帰ろうと思っても、職場の雰囲気から皆より先に帰ることが出来ない」という日本的な理由が足枷となって生じた悲劇である。
有給休暇についても同様で、「消化しようにも、休むと言える雰囲気でない」という例は、身近に多くある。酷い例では「労働組合が有給休暇を消化しないと文句を言うので、皆、有給と称して出勤している」という会社も実在する。
三、休暇の意義
結局日本は、欧米諸国から様々なシステムを導入しても、そこに根付く思想を汲み取ることが出来ていない。休暇に対する考えを根本から変えない限り、日本に時短制度や休暇制度が導入されても、有効活用されることは期待できない。日本人は、休暇を取ることや休むことへの罪悪感を強く持っているが、まずはその勘違いから訂正していかなければならない。休暇を取るのは、自己実現の余暇活動を行なうためだけではない。休養を取るという大きな課題も含んでいるのである。
本来、休養を取ることは権利ではなく義務なのである。休養は、ストレスを解消し、仕事に対する集中力を高めるのに必要だ。自分自身のためであるのは勿論のこと、仕事の能率を上げるためにも、休養を取ることは自己管理の一環なのである。
とは言え、社員側から休暇の要請をすれば、権利ばかりを主張しているように見える。また、休み方を知らない(もしくは休むことに慣れていない)私たち日本人は、休暇を有効活用できないかもしれない。メリハリの利いた生活を、直ぐには実現できない可能性も充分あり得る。休暇を取ることで、却って仕事に支障をきたすかもしれない。しかし、このような危惧は一時的なものであり、将来的には必ず、休暇は私たちの生活の中に定着し、仕事の上でも生産性は伸びるだろう。
具体的な例を挙げるならば、ドイツでは一日の労働時間が二時間以上減ったことで、一人当たりの生産性は約三倍に増えたのである。ちなみに、ドイツの九五年度平均労働時間は一五八一時間で、日本より年間約三三〇時間少ない。しかし、ドイツと日本のGNPは同様であり、このことからも、労働時間と経済成長は無関係であることが立証されているのである。
四、総括
どんな実例があろうと、日本における労働時間の短縮は非常に困難なことだと、企業に属すようになって実感した。力一杯働きたいと初めから意気込んでいる新人も勿論いるが、やはり大半は「残業はしたくない」と思っている。しかし、それ以上の強さで「でも仕方ない」と、過酷な労働条件を素直に受け入れているのである。「皆、残業しているんだか仕方ない」「そんなものだから仕方ない」と、非常に漠然とした理由を基に、確実に大きな流れに取り込まれていく様は、なるほど、時短の意識が定着しないのは当然だと思わせるだけの説得力がある。
諦めから来るのか、心の底から受け入れているからなのか、社会人は「仕方ない」「そんなものだよ」という言葉をよく口にする。不平不満や文句を言うのは大人気ないことだと捉えられる。疑問や憤りが改善を生むというのに、これらを吐き出せば「我儘」「世間知らず」「お子様」と称される。このような基盤が根付く限り、現状は一向に打破されないというのに、皮肉にも世間が事態を改善しようという動きに歯止めを掛けているのである。
私たち日本人は、今一度生きる意味を考え直し、生活先進国を目指して、意識改革から始める必要があるのではないだろうか。