脱サラ肖像画−03
夏目漱石
作家(1867〜1916)
(1999年10月24日/朝日新聞日曜版より転記)
連載特集 100人の20世紀
■泣いて過ごした英留学
親に捨てられたような幼少時代。それでもグレずに漢籍と英語を学んだ。留学したロンドンでは、下宿で泣いて過ごしながら、初めて接する「近代」と格闘する。
「西欧への幻想を捨て、自己本位の道を探せ」
東洋思想への造詣と、徹底的な西欧研究から発した日本人への警鐘は、100年経った今も色褪せない。
自身が「坊っちゃん」型だった。権威を嫌い、損をした。しかし、背筋をぴんと立てていた。保身、無節操、小出世主義の「赤シャツ」型現代でこそ、漱石は心に染みる。
■赤シャツ型社会に痛棒
山道を下りながら、こう考えた。
赤門をくぐり、朝日新聞社に入った。ロンドンにも住んだ。文筆を業としている。ひげを生やしたこともある。漱石とみな同じだ。「1杯のビールで顔が火照って街を歩けぬ」のも似ている。これだけ揃ったら、100年後、1円硬貨の裏にでも顔か何か出ていなければ嘘だ。
思うに、ロンドンまではいい勝負だった。漱石・夏目金之助も、愛媛の松山中学と熊本・五高の悪がきどもに英語を教えていた、ただの人である。それが、ロンドンで天地の差がついた。
「余は下宿に立て籠もりたり」
漱石は2年の英国留学の過半を、テムズ川の遥か下宿に閉じこもり、400冊という洋書を買って格闘した。文学とは何か、近代とは何か。文学書以外の哲学、歴史、自然科学などの書を徹底的に読む。
「本代を浮かすため、安い下宿を探したんですよ」と、クラパムコモンのその下宿向かいに「漱石記念館」を構える恒松郁生さん(48)。
ついに神経衰弱になる。その「最も苦しみに満ちた」日々の中から、「西欧への幻想を捨て」、「真に自己本位になれ」との結論を得た。西欧のど真ん中にいてそう考える。普通ではない。
1900年10月から2年間の滞在だった。ビクトリア女王の葬儀を、下宿のおやじの肩車で見た。7つの海を支配した大英帝国が、陰りつつ20世紀へ入る。その世紀の節目に居合わせた漱石は、ついている。
日本は折りからその大英帝国と同盟を結び、国をあげての祝賀である。漱石は義父に「貧民が富豪と縁組みした嬉しさのあまり、鐘太鼓を叩いて村中を駆け回る様」と書いた。
「西欧人の尻馬に乗って空騒ぎ」し「絶えず外からの力で外発的開花を続ける」日本。それは「おそらく永久に」変わらないと今日を見通していた。一方、石炭の煤煙で痰まで黒くなる大都会で「人間の不安は科学の発展から来る」と考えた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「100年後に名を残す人間になりたし」と考える明治の人である。文部省派遣の英語留学生第1号の重圧もある。下宿でひとり「国のためまだ何もできず、誠に申し訳ない」と思い悩む。そこに文部省から「留学成果の中間報告を後れ」。白紙を送った。坊っちゃん型だった。
下宿の建物は、100年の時を何事もなかったように刻んでいた。3階の漱石の部屋には今も住人がいる。「閉じこもったまま泣いている」のを、下宿の女主人が心配して医者を呼び、近くの坂道で自転車の練習でもしなさい、と勧めた。
そのラベンダーヒルの坂道は舗装され、バスや車で混雑していた。広い道幅、自転車練習にはちょうど良さそうな坂。それが漱石の痛々しい姿を想像させた。
がたごとと、かすかに列車の音がする。教会の鐘が鳴る。どちらも、漱石が聞いたその音である。
「夏目狂セリ」
文部省に打電した男がいる。文部省はすぐ「夏目精神ニ異常アリ。保護、帰朝セヨ」と、別の留学生に訓令した。いつの時代にもこういう手合いはいる。妬み社会である。
帰国した漱石は36歳。一高、東京帝大の講師に職を得た。マクベス、リア王など、彼のシェークスピア講義は大教室が溢れた。漱石がシェークスピアの翻訳を残していれば、と惜しまれる。素晴らしかっただろう。
神経衰弱が進んでいた。作家・半藤一利さん(69)の話では「漱石の神経衰弱はほぼ5年周期で悪化と回復を繰り返していた」。半藤さんの義母は漱石の長女筆子。彼女から聞かされた話である。
病気は日清、日露など戦争の時期に悪くなった。
日清戦争前の25歳、北海道に籍を移して徴兵を逃れた。「送籍という男が……」などと後に冗談めかしたが、倫理観の強い人だから、戦地に赴く友を見て、自己嫌悪に苛(さいな)まれただろう。ふいと東京から松山に「都落ち」するのは、日清戦争の時だった。
「我が輩は猫である」──名を100年後に残した名作は、ロンドン帰国後のこの病の中で書かれた。
夜中にどたんばたん、書斎で火鉢をひっくり返す、ランプを壊す。訳もなく、寒い庭に飛び出す。妻の鏡子や子供たちに当たり散らす。お膳をぶちまける。ついには鏡子を実家に追い返す。
見かねた友人の高浜虚子が、気分転換に何か書いたらどうだろうかと勧めた。何日かして、にこにこと出してきた。「猫」の第1章だった。翌春「坊っちゃん」を2週間足らずで書き上げる。秋には「草枕」。作家のつもりはない。「癒し」の筆。自由闊達、小気味良いリズムに満ちている。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「狂セリ」のレッテルを張られた、その狂気と天才の縄目から、名作がすらりと出てくる。人間、不思議なものだ。口語調で写実的。「ただの人」がいつ、どこでこんな表現力を身に付けたのか。
松山の道後温泉。「坊っちゃん湯」に浸かってそれを考えた。「泳ぐべからず」の張り紙を横目に坊っちゃんが泳いだ、あの湯である。番台のおばさんは「漱石さんはボロクソに書かれとるが、道後を有名にしてくれたけん……」。赤手拭いを貸してくれた。
「坊っちゃん団子」で一服。子規記念博物館に長谷川孝士館長(73)を訪ねる。
「子規が漱石を生み出す産婆役でしたね」
子規が教えた俳句が、表現者・漱石を誕生させたという。
正岡指揮は松山の人。二人は一高の同期で、寄席で偶然出会った仲。数少ない親友である。
幼少期は孤独で不幸だった。江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町)の名主、夏目家の8番目の子。邪魔者扱いで里子に出された。そこは古道具屋で、「がらくたと一所に小さなかごに入れられ、毎晩、四谷の夜店にさらされていた」。
そこから戻ると、今度は養子に出された。9歳で養父母が離婚、また夏目家に戻ったが、実の父母を祖父母と思い込んで暮らした。
21歳で夏目家に復籍。過去の養育費が養家に支払われた。「今後とも不実不人情にならない」の一札を金之助は養父に差し出す。金で遣り取りされる自分だった。
松山で英語講師をしていた漱石の下宿に、日清戦争から帰った子規が転がり込む。すぐ句会を開催。漱石は熱中した。
同居50日余で子規は東京へ。月給80円の漱石から10円借金して、途中、奈良に遊ぶ。校長の月給が60円だった。子規は奈良から、借用書代わりに一句送ってきた。
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
漱石は漢籍を14歳、英語を16歳から学んだ。どちらも抜群である。漢詩は中国人をも感嘆させた。帝大時代に方丈記を英訳したが、「ゆく河の流れは絶えずして」の冒頭を読むだけでも鳥肌が立つ。
松山中学の生徒がごちゃごちゃ言うと、「それは辞書が間違っている」と言い放つだけのことはあった。ロンドン前から、どうもただの人ではなかった。
落語、相撲、そば、風呂、床屋、謡曲好き。江戸っ子の高慢さがまた良かった。
「西函嶺(せいかんれい)をこえて海鼠(なまこ)に眼鼻なし」などぽんぽん書いた。西函嶺は箱根の山のことだ。勿論、江戸のなまこにも目鼻はない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「草枕」「野分」の後、教職を去る。朝日新聞に入社。約束された帝大教授の名誉と安定を捨てた。
「やりたきは創作」
小説記者・漱石の誕生。40歳。9年後に世を去る。短い作家生活だった。
朝日との契約は周到だ。破格の給料200円、盆暮の賞与4ヶ月、社主による地位安全の保証、などを条件に、作品の一切を朝日紙上に、毎年「長いものを一回または『坊っちゃん』のようなものを2、3篇」書く、と書面にした。印税も細かに記録していた。こんな契約や印税の概念など珍しい時代である。
「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「行人」「こころ」、そして絶筆の「明暗」。
書いては胃潰瘍で倒れ、また書いては血を吐きつつ、漱石はこの契約を守った。すでに退路は絶ってしまっていた。
総理大臣の西園寺公望が文人たちを招待したとき、漱石は執筆を理由に断った。「ハガキで断るのは……」と周囲が言うと、「なあに、これで用が足りる」と一首添えた。
「ほととぎす 厠(かわや)なかばに 出かねたり」
文学博士号を授与するという文部省の手のひらを返すような決定を、がんとして拒んだ。こんな漱石を、読売新聞は「変人」と書いている(明治40年11月17日)。
なるほど雅号「漱石」は頑固、変物の意だが、この勉強家の和洋漢ないまぜた知力と筆力、端正な姿勢は、ひげを生やしたぐらいでは、遥か遠く及ばない。降参降参。
死の3ヶ月前、芥川龍之介への手紙に添えている。
秋立つや一巻の書を読み残し
(文・遠藤正武)
【一言コメント】
我が敬愛する漱石。漱石にまつわる文献は世の中に溢れ返り、この記事だけでは漱石という人物の偉大さのほんの100分の1も伝わらない。が、とにかく紹介しておく。
それにしてもこの記事を書いた遠藤記者──いくら東大卒で朝日新聞社に勤務してロンドンに住んでいたとはいえ、いくら単なる文章の流れとはいえ、自分と夏目漱石を較べるなんて……ちょっと勘違いが過ぎるんじゃないかっ?!
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