脱サラ肖像画−01

アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ

作家(1900〜1944)

(1999年4月18日/朝日新聞日曜版より転記)


連載特集 100人の20世紀

■砂漠の民は語り伝える

 青年サンテグジュペリは鬱々とした毎日を送っていた。仕事も、恋愛も上手く行かない。地方貴族の家に生まれた坊ちゃん育ちの若者に、世間の風は冷たかった。
 救ってくれたのは、砂漠との出会いだった。星の村、熱砂、スナギツネ、砂漠の民。壮大な自然が青年を成長させ、のちに文学的な想像力の源泉にもなった。
 生涯愛したアフリカのサハラ砂漠。その岬の村で、「星の王子さま」の作者の若き日の姿を、遊牧の人々が語り伝えていた。


■地中海に消えた「夜の鳥」

 モロッコのカサブランカから南ヘ900キロ。「星の王子さま」を誕生させたアフリカ・西サハラのジュビー岬は、何もない場所だった。
 大西洋にせり出した岬に、石ころだらけの荒れ果てた風景が広がる。草も木も、砂丘さえもない。

 1927年、航空郵便会社の操縦士アントワーヌ・ド・サンテグジュペリは、この荒涼とした岬に着任した。27歳。モロッコと、仏領のセネガル・ダカールとを中継する飛行場の責任者としてだった。
 降る星を見上げて暮らした1年あまりある年月は、「孤独だが、人生で一番幸せな日々だった」と、作家になってから回想している。
 「星の王子さま」は第二次大戦中に、亡命先の米国ニューヨークで書かれた。しかし、月の光に輝く砂などの絵本のイメージは、このジュビー岬の日々の記憶から生まれた。


◆  ◇  ◆  ◇  ◆


「かんじんなことは、目に見えないんだよ」──。

 星の王子さまが出会ったキツネが口にする、有名な言葉だ。
 キツネも砂漠の岬の住人だった。岩場には耳の大きなスナギツネが住む。「賢くて罠に掛からない」。遊牧民は忌々しそうに言う。昔はもっとたくさんいたという。
 海に沈む夕日、澄んだ星空、砂漠の動物たち。他に当時の様子を伝えるものは、廃墟になった飛行場の建物だけだった。

 遊牧民のテントしかなかった岬に、今は小さな町ができている。
 町の人から「サンテグジュペリと一緒に働いていた老人がいる」と聞いた。
 バシルと名乗るその老人は、しっかりとした足取りでやって来た。
 83歳になるという。12歳の時に飛行場で働き始めたバシルさんは、サンテグジュペリに憧れていた。

「彼は評判の勇敢な男だった。砂漠の危険地帯で遭難した飛行機乗りを、何度も救い出した」

 当時、岬にやって来る郵便飛行機は夜間に着陸することが多かった。

「サンテグジュペリの飛行機は、いつも暗い空から下りてきた。だから村の者は、彼のことを尊敬の気持ちを篭めて呼んだ。夜の鳥、と」

 しかし、バシルさんとサンテグジュペリが一緒に働いた時期は短かった。郵便飛行機の性能が向上し、航続距離が延びたため、岬での中継が必要なくなってしまったからだ。
 サンテグジュペリは去った。飛行機は来なくなった。それでも砂漠の人々は、誰にでも笑顔で接した「夜の鳥」のことを忘れなかった。

 サンテグジュペリも、砂漠の日々を忘れなかった。小説で賞を貰って有名になってからも、いつも岬の思い出を語った。
 サンテグジュペリが砂漠の日々を懐かしんだのには理由がある。フランス社会の現実は、彼にとって生きづらいものだったからだ。

 子供の頃は大変なわんぱくだった。妹の孫、ナタリー・ベリエールさん(48)は祖母から、「新しい遊びを考え付いては、いつも家の中をぐるぐる走り回っていた」という話を聞いたことがある。
 この自由気ままな性格が、世間に出ると災いした。

 最初のつまずきは学校の成績。机に向っているのが嫌いだった。特に算数が苦手だった。海軍の学校を目指して3年も受験勉強をしたのに、結果は不合格だった。
 その後短い期間、美術学校に通う。そこでも才能は認めてもらえなかった。
 20歳の時、兵役に就き、アルザス地方の航空隊に配属され、操縦士の資格を取った。


◆  ◇  ◆  ◇  ◆


 22歳で除隊する。婚約者がいたため、職探しを始めた。
 最初はタイル会社の事務員だった。帳簿の数字を見ている内に瞼が重くなった。居眠りしているところを上司に見付かった。
 次はトラックのセールスマン。田舎町を回った。来る日も来る日も商談は不成立だった。1年余りかかって1台しか売れなかったと、本人が語っている。
 退屈なので、友人への手紙にマンガ風の挿し絵を描いた。絵は上手くなった。しかしグズグズしすぎたため、婚約者は他人の奥さんになっていた。

 失意のサンテグジュペリを迎えてくれたのは大空だった。
 アフリカ、南米への航空郵便の新路線競争が激しくなっていた。フランスではラテコエール社が飛行士を募集していた。
 人生に少し風が吹いた。航空郵便の飛行士としての体験を書いた「南方郵便機」「夜間飛行」で作家としての成功を掴む。南米で知り合った美しい女性、コンスエロと結婚もした。
 だが、相変わらず世渡りは下手だった。社交界にも、論議好きの知識人グループにも馴染めなかった。金銭感覚がなく、借金ばかりが増えていった。小説を書く筆は遅かった。

 事故も起こした。
 35年の年末、サイゴンまでの長距離飛行記録に挑戦した。高額の賞金を手に出来る筈だった。
 しかし2日目、自慢の最新鋭自家用機は、目的地遥か手前のアフリカ・リビア砂漠で墜落した。「奇跡的に救出」という号外が出たのは、行方不明になって4日後だった。
 38歳には南北アメリカ大陸横断飛行の途中、中米グアテマラで離陸に失敗。重傷を負った。
 傷がいえる間もなく第2次世界大戦が始まり、召集される。対空砲火を浴びながら、低空で偵察飛行をした。パリがドイツに占領された後、米国に脱出した。
 「星の王子さま」は苦しい亡命生活の間に書かれた。当時既に身も心も傷付いていたことが、友人らへの手紙に記されている。

「私は石のように不幸だ」
「論争や除名や狂言に、酷く疲れてしまっている……」


 亡命フランス人同士の派閥争いと中傷合戦のことだった。
 味方でなければ敵。論議や駆け引きが苦手なサンテグジュペリは、ビシー政権の回し者という噂を流され、仲間はずれにされていた。ロンドン亡命の実力者、ドゴール将軍の側につかなかったからだ。
 権力や政治好きな人間には不信感を抱いていた。新聞社に頼まれ、社会主義のモスクワや内線のバルセロナを取材した経験からだった。
 結局、正直で世渡りの下手な性格が命取りになる。中傷から逃れるように、再び戦場に向った。

「出発しなくていい理由は山ほどあり、兵役免除を受ける根拠だって充分にある。でも、僕は出発する」(43年4月・妻への手紙)

 作家として亡命先で宣伝活動をしていれば充分なことは分かっていた。だが使命感に加えて、最後は心理的にも追い詰められていた。

「悲しくて悲しくて仕方がない。私には希望するものが何もない。人生が分からなくなっている」(43年12月)

 44年7月31日。地中海・コルシカ島から1人乗りの偵察機で飛び立った。任務は、1万メートルの高空から適地を撮影することだった。

「彼は一人で危険な前線を飛べるような状態ではありませんでした」

 航空史家のパトリック・エラルドさんは語る。
 昔の事故の後遺症で左肩が不自由だった。一人では風防ガラスを開けられず、万一のときのパラシュート脱出は不可能だった。

「偵察機乗りとして年齢的にも限界を超えていたのです」


◆  ◇  ◆  ◇  ◆


 最期は謎のままだ。連合軍のレーダーにも、ドイツ軍の報告書にも、撃墜の記録は残されていない。
 しかしエラルドさんは、「絶望して投げやりになっていた」という説を否定する。飛び立つ少し前にチェニスで知り合いの子供たちに会い、約束しているからだ。

「次は『星の王女さま』という話を書いてあげるよ、とね。約束を果たせなかったのが心残りだったはずです」

 グルノーブルの近くの森に隠れていたレジスタンスのリーダーが、高空を旋回して南に向かった偵察機を目撃している。

 それから半世紀以上が過ぎた。
 何度も地中海で機体の捜索が行われたが、何も見付からなかった。
 97年、マルセイユ沖で、サンテグジュペリの名前が刻まれた銀の腕輪が飛行機の残骸と共に網に掛かったと漁師が届けた。
 だが、フランスの科学雑誌「科学と生命」は今年2月号に、「腕輪が本物かどうかは疑わしい」という特集記事を掲載した。
 腕輪を見た戦友がいないことや、発見した時の状況などに不自然な点が多いためだという。
 「最期の謎」を巡る騒動は、今も続いている。
 妹のナタリーさんは言う。

「私たちとしては、捜索騒ぎには関心がないのです。サンテグジュペリはもう帰ってこない。その事実に変わりはないのですから」

(文・清水克雄)



【一言コメント】
 日常エッセイにも書いたというのに、再びこちらで紹介するあたり、私のサンテグジュペリに対する思いはかなり強いようです……。

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