日常エッセイ−20

「星の王子さま」

(1999年4月18日執筆/1999年9月14日加筆)



 早速本題で申し訳ないが、憂鬱になる話をしたい。(←私もいきなり飛ばしている……)
 朝日新聞を取っている方は既にご存じかもしれないが、ある記事をどうしてもここで紹介したい。まず基本として、私がこの記事(と言うか連載モノの特集)を読んだ時の状況を説明しておこう。
 今年の4月、私が派遣先を1ヶ月で辞めることになり、今後の人生をどうしようと悩みに悩んでいた時に、この特集に出会った──。

4月18日発行 朝日新聞日曜版 「連載特集 100人の20世紀」
サンテグジュペリ (※注:「星の王子さま」の著者)


 隠し立てせずに告白しよう。私はこの特集を読んで泣いた……。これ読んで泣いた人、私以外にもいるんじゃないかなー……と密かに思っているのだが、どうだろう。私が目を潤ませながら新聞を読み耽っていると、母に「バッカじゃないの? こんなんで泣くの、アナタだけよ」と吐き捨てるように言われた覚えがあるが……。私が当時あまりにもメソメソしていたので、母もいい加減頭に来ていたらしい……。自分だって「寂庵法話集」に頼っていた時期があったクセに……。(【日常エッセイ】No.28「寂庵法話集」参照) 人は皆、苦しい時期が過ぎるとその時のことを忘れてしまう。こういう態度はイケナイと思う。うっうっ……。

 さて、今回はエッセイでもなんでもないが、今年前半のメールを整理していたら、私がこの記事を切々と友人に報告している遣り取りがあったので、ここにまとめておこうと思う。新聞を丸々写して知らせるほど、私はこの記事を友人に教えたかったらしい。そして今でもその気持ちは変わらない。多くの人に是非知って欲しい、サンテグジュペリの人生──。

 では、心の準備が出来ていなかろうが問答無用に行かせてもらう。先ずは冒頭文から。




 青年サンテグジュペリは鬱々とした毎日を送っていた。仕事も、恋愛も上手く行かない。地方貴族の家に生まれた坊ちゃん育ちの若者に、世間の風は冷たかった。
 救ってくれたのは、砂漠との出会いだった。星の村、熱砂、スナギツネ、砂漠の民。壮大な自然が青年を成長させ、のちに文学的な想像力の源泉にもなった。
 生涯愛したアフリカのサハラ砂漠。その岬の村で、「星の王子さま」の作者の若き日の姿を、遊牧の人々が語り伝えていた。



 もう既にこの冒頭部の段階で涙ぐんでいる人はいないだろうかっ?!(期待し過ぎか?)
 ──いや、コホン……。落ち着こう。なんでもいきなりはイケナイ。

 確かに私も、今この記事を読まされたら泣かないかもしれない……。が、サンテグジュペリの人生は、世の中に孤独に存在する少数派のアナタの心を一撃すること間違いなしなのだ。丁度時期的に「誰とも上手くやって行けない……」とか、「人生が全然上手く行かない……」とか落ち込んでいる人には、かなり染みる人生だと思う。現に当時の私はサンテグジュペリに自分を重ね合わせて大変だった……。彼にしてみれば「凡人が勝手に重ね合わせるな」と思うかもしれないが、なんか……こう……。

 とにかく、読んで欲しい。そして共感してくれる人が1人でもいれば幸いである。

 それでは、行かせてもらうぞ、怒涛の本文。ほぼそのまま書いている。(と思う。確か) 
 ちなみに、彼は1900〜1944年の人物である。




 (サンテグジュペリが)子供の頃は大変なわんぱくだった。 −略− この自由気ままな性格が、世間に出ると災いした。最初のつまずきは学校の成績。机に向っているのが嫌いだった。 −略− 海軍の学校を目指して3年も受験勉強をしたのに、結果は不合格だった。その後短い期間、美術学校に通う。そこでも才能は認めてもらえなかった。
 20歳の時、兵役に就き、アルザス地方の航空隊に配属され、操縦士の資格を取った。22歳で除隊する。婚約者がいたため、職探しを始めた。最初はタイル会社の事務員だった。帳簿の数字を見ている内に瞼が重くなった。居眠りしているところを上司に見付かった。次はトラックのセールスマン。田舎町を回った。来る日も来る日も商談は不成立だった。1年余りかかって1台しか売れなかったと、本人が語っている。
 退屈なので、友人への手紙にマンガ風の挿し絵を描いた。絵は上手くなった。しかしグズグズしすぎたため、婚約者は他人の奥さんになっていた。

 失意のサンテグジュペリを迎えてくれたのは大空だった。
 アフリカ、南米への航空郵便の新路線競争が激しくなっていた。フランスではラテコエール社が飛行士を募集していた。人生に少し風が吹いた。航空郵便の飛行士としての体験を書いた「南方郵便機」「夜間飛行」で作家としての成功を掴む。南米で知り合った美しい女性、コンスエロと結婚もした。
 だが、相変わらず世渡りは下手だった。社交界にも、論議好きの知識人グループにも馴染めなかった。金銭感覚がなく、借金ばかりが増えていった。小説を書く筆は遅かった。

 事故も起こした。
 35歳の年末、サイゴンまでの長距離飛行記録に挑戦した。高額の賞金を手に出来る筈だった。しかし2日目、自慢の最新鋭自家用機は、目的地遥か手前のアフリカ・リビア砂漠で墜落した。「奇跡的に救出」という号外が出たのは、行方不明になって4日後だった。
 38歳には南北アメリカ大陸横断飛行の途中、中米グアテマラで離陸に失敗。重傷を負った。傷がいえる間もなく第2次世界大戦が始まり、召集される。対空砲火を浴びながら、低空で偵察飛行をした。パリがドイツに占領された後、米国に脱出した。「星の王子さま」は苦しい亡命生活の間に書かれた。当時既に身も心も傷付いていたことが、友人らへの手紙に記されている。

「私は石のように不幸だ」
「論争や除名や狂言に、酷く疲れてしまっている……」


 亡命フランス人同士の派閥争いと中傷合戦のことだった。味方でなければ敵。論議や駆け引きが苦手なサンテグジュペリは、ビシー政権の回し者という噂を流され、仲間はずれにされていた。ロンドン亡命の実力者、ドゴール将軍の側につかなかったからだ。権力や政治好きな人間には不信感を抱いていた。新聞社に頼まれ、社会主義のモスクワや内線のバルセロナを取材した経験からだった。
 結局、正直で世渡りの下手な性格が命取りになる。中傷から逃れるように、再び戦場に向った。

「出発しなくていい理由は山ほどあり、兵役免除を受ける根拠だって充分にある。でも、僕は出発する」(43年4月・妻への手紙)

 作家として亡命先で宣伝活動をしていれば充分なことは分かっていた。だが使命感に加えて、最後は心理的にも追い詰められていた。

「悲しくて悲しくて仕方がない。私には希望するものが何もない。人生が分からなくなっている」(43年12月)

 44年7月31日。地中海・コルシカ島から1人乗りの偵察機で飛び立った。任務は、1万メートルの高空から適地を撮影することだった。「彼は一人で危険な前線を飛べるような状態ではなかった」と航空史家のP〜さんは語る。昔の事故の後遺症で左肩が不自由だった。一人では風防ガラスを開けられず、万一のときのパラシュート脱出は不可能だった。「偵察機乗りとして年齢的にも限界を超えていたのです」。

 サンテグジュペリの最期は謎のままだ。−略−





 いかがだっただろうかっ?! 憂鬱を撒き散らしただけだったかもしれないが、反対に「自分だけじゃないのネ……」と勇気が湧かないだろうか? それ以前に、共感した方はいらっしゃるだろうか。もしいたら是非語り合いたい……。

 なんのことはない、ただそれだけ。次回のエッセイは大人しく笑えるモノに戻ります……。ただちょっと鬱のお裾分けをしたかっただけなの。

【追記】
 サンテグジュペリの詳細を知りたい方は【脱サラ肖像画】No.1「サンテグジュペリ」へ。



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