日常エッセイ−02
「痴漢 痴漢! 痴漢!!」
(1995年8月11日執筆)
私は大学2年になるまで、本格的な痴漢に遭ったことがなかった。この場合の「本格的」というのは、電車の中で胸を揉まれたり、尻を撫で上げられたりするオーソドックスな痴漢行為のことを指している。
本格的でない痴漢には小学校低学年の頃に会った。彼は自分のモノを見せるだけ、という何とも害のない変質者だった。当時の私には彼の股間の辺りでブラブラ振られているモノが何なのかピンと来ず、直視してもさほど動揺はしなかった。後にアレが何だったのかが判明し、そんなに見せびらかすほどの大きさではなかったと、やはり動揺はしなかった。
中学生になり、高校生になり、友人たちが少なくとも1度は痴漢行為に遭っていることが明らかになり、私は大層落ち込んだ。最多は私の聞く限り9回という記録だった。16歳までに痴漢遭遇回数9回……かたや私は20歳になるまで1回も経験がなかったのだ。女としてこんなに悔しいことはない。
私は痴漢にさえ女として認めてもらえないのだろうか、と訳の分からぬ敗北感で胸が一杯になった。しかし私の胸は依然として低いままだった。
痴漢に遭った人は「遭わない方が幸せだって。訳の分からない男に触られてご覧、あんなに気分が悪くなることってないよ」と痴漢を女の敵呼ばわりしていたが、私だって別に触られたいわけではない。電車の中で尻を撫で回されているにも関わらず、黙って震えていた女子高生を見かけたことがあったが、彼女を羨ましいとは思わない。むしろ、なぜ拒絶の行為に踏み出さないのか、私には理解できなかった。私なら思い切り抓って捻って爪を皮膚に食い込ませてやるのに……と想像が膨らんだ。
だが、痴漢が狙ったのは幸か不幸か私ではなかった。
あんなふうになすがままにされている女は馬鹿だ。本人が気持ち良いなら構わないが、震えるくらい嫌なら叫べばいいのだ。助けてくれるかどうかは別として、周りに人間は腐るほどいる。痴漢だって人の目を気にするからこそコソコソ触るのだ。その場で彼女を襲いだしはしないだろう。
こんな考えを持っているから、私は痴漢のターゲットにはならないのかもしれない。痴漢は悪意を持っている人間を敏感に察知することが出来るのだろう。大したものだ。その能力をもっと有効に使えば人生も良い方向に転換するだろうに……と、見も知らない痴漢に同情さえしてみせる私は、先ほどの女子高生とは違った意味で馬鹿かもしれない。
話が逸れたが、要するに私は触られたいのではなく、ただ痴漢に遭ってみたかったのだ。勿論、拒絶から退治まで込みで、である。
私は高校生になるまで知らなかったのだが、痴漢行為は罰金まである立派な犯罪なのだ。痴漢行為をする人間が前科を持っているとは思えないから、痴漢を捕まえれば彼の人生における輝くべき初犯が「痴漢行為」という汚点になるのだ。青春の暗い陰を思わせる「窃盗」や、人生の苦悩を醸し出す「殺人」とは訳が違う。「痴漢行為」が初犯なんて、きっと犯罪者仲間はおろか、一般人にだって馬鹿にされるに違いない。少なくとも私は馬鹿にする。それも一生。
こんな凶悪なことを考えているから痴漢も寄って来ないのだと諦めかけていた’94年夏の終わり、ついにチャンスが……いや、痴漢が私の目の前に現れた。
家に帰る途中の坂道を下りかけた所で、40メートルほど先の坂の麓に不審な中年男がウロウロしている。彼は丁度私の家の玄関の辺りをうろついていたのである。この時は漠然とした違和感を感じただけで、痴漢という言葉は浮かんでこなかった。もしかして家に来た客なのかもしれない。
しかし私が近付くにつれ、男はベルトのバックルを激しくいじり始めた。
──間違いない、痴漢である。
今までに貯めに貯めた「痴漢に遭遇したらやってみたいことリスト」を頭の中で捲り始めようとしたその時、私の思考は凍りついた。状況が思惑とは裏腹に最悪だったのだ。
「絶好のチャンスは最悪のタイミングでやって来る」というマーフィーの法則が頭の隅をかすめる。私は大勢の人間がいる安全な状況下での痴漢到来を願っていた筈である。にもかかわらず、私の輝かしい初の痴漢行為が進行するであろう舞台は人通りの少ない路地で、折しも時間は夜の10時半、バイト帰りの出来事だった。
一体、神サマは何を聞いていたのだろう。どうせ願いを聞くなら、完全に聞いてくれ。さもなくば全く聞かないでくれ。こんな恐い状況下での痴漢行為なんてまっぴら御免だ。
救いは私の家が既に20メートルほどの所にあったことくらいだ。しかし私の家はビルで、1〜3階までは会社のため5時を過ぎれば無人になり、家族は4階に住んでいる。叫んだところで声が届くかどうか……。しかも、家に近付けば近付くほど痴漢にだって近付いているのである。
痴漢との距離が15メートルほどになっても私は歩く速度を変えなかった。考えがあっての行動ではない。坂道のため、歩調に加速が付いてしまっていたのだ。恐くて速度も落とせない。
私が歩調を緩めずに近付いてくることに満足した彼は、距離が10メートルほどに詰まった時、おもむろにズボンを下げ始めてしまった。
彼がズボンを下げたことで、私は急に冷静さを取り戻した。
まだ距離があるにも関わらずズボンを下げたと言うことは、どうやら強姦志望ではないらしい。強姦したいなら、気付かれないように近付いて、ガバッと来るのが定石だろう。なのに彼は私が射程距離(?)に入りもしないうちから、なんとパンツまで下げてしまっている。
奴は馬鹿だ。きっと気の弱い見せたがり屋さんに違いない。これなら勝てるかもしれない。
幾分安心した私は、肩に掛けていたリュックの中の筆箱を手探りで開け、シャープペンを取り出した。リュックを左手に持ち替え、右手にはシャープペン。準備は万端だ。どこからでも掛かって来いという代わりに、腰を低く落とし、前傾姿勢を取った。この時、彼と私の距離は4メートル程だった。ここに来て初めて歩みを止める。坂道が終わったことで、歩調を緩めることに成功したのだ。
さて、止まってはみたものの、やはり恐い。何と言っても相手は変態だ。これ以上近付くのは危険と見なし、私は4メートルの距離を保ちつつ相手の出方を窺った。
二人はその場で互いの出方を窺い、4メートルの距離を保ちながら円を描いていた。私も充分恐かったが、彼だって恐かったに違いない。なにせチョイトからかおうと思っていた筈の女の子が、シャープペンを取り出し、腰を低くして睨み付けてくるのだから。どうしてこんなことになったのか、自分の計画のミスを懸命に探していたことだろう。
後に引けないのは、彼も私も同じだった。
そうしてかなりの時間が経ったように思われるが、実際は1分も掛からない出来事だったのだろう。
この状況を打破しようと最初に試みたのは、私の方だった。高い声が出せない私は、それでも何とか声を出そうと思った。思い描いた声は「きゃー」とか「助けてェー」だったが、地声が低いためこの台詞を言うのは難しい。
初めの音の高さを定めようと、咄嗟に口を吐いて出た台詞は「オラァ」だった。これだけでは間が抜けてしまう。慌てて次に続く言葉を探した。一度言葉が出ると、後は考える前に言葉が出てくる。
「何だ、コラァ! どーしたどーしたァ!!」……どーしたもこーしたも、本当の意味でどうかしているのは私の方である。こんな台詞ってあるだろうか……。
後に私は自分の行為を死ぬほど恥じた。しかし、この時は必死だったのだ。あまりの恐怖に竦んでしまって、自分がどれだけスゴイ台詞を吐いているか理解するだけの余裕がない。
私は凝りもせず「オゥオゥオゥ」とか何とか言い続けていた。
と、その時、脇道からOLが現れた。彼女は門を曲がった途端に目にしたこの光景に、ひどく驚いている様だった。声こそは出さなかったが、彼女の肩が大きく揺れたのが判った。彼女の出現が、この痴漢との遭遇劇の幕を降ろした。痴漢は第三者の出現に動揺し、ズボンを上げて走り去ってしまったのである。
残された私の心臓は、まだドキドキしていた。私はこのOLに感謝の意も込めて、
「あの人痴漢ですよ。気を付けて下さい」と、ひと声掛けようと、彼女に視線を移した。すると彼女は
「ひっ」と小さく叫び、痴漢を追うように逃げてしまったのである。
──なるほど、私の右手には月夜に光るシャープペンが握られたままだった。