日常エッセイ−01

「植木算の受難」

(1995年8月10日執筆)



 大学1年の秋、小遣い稼ぎのためと言うよりも、単に興味本位で家庭教師のアルバイトを始めた。相手は小学4年の女の子、科目は算数である。
 それまで小学生に算数を教えるという経験がなかったため、彼女が繰り出す理不尽な答えや解法に対して、初めのうちは「小4ってこんなもんなんだ?」と無理矢理自分を納得させていた。掛け算がままならなくても「小4だから……」と動揺する気持ちを押さえ、自分を落ち着かせていた。

 今から思えば、本当に落ち着いて考えるべきだったのだ。九九とは小学2年でマスターするものではなかったか。なぜ小4の彼女が「2×3=5」などとイケシャーシャーと言うことを許してしまったのか、今でも悔やまれてならない。

 私にまだやる気があった初めの1年の間にも、時々不安になることはあった。だが、相手は小学4年生である。伸びる可能性は充分秘めている。そう思ってしまった私にもトガがあるかもしれない。しかし、そんな淡い期待も砕け散った。
 ──キッカケは植木算だった。
「周200メートルの池に木を等間隔に25本植える時、何メートル間隔に木を植えれば良いでしょう」
 この問題は植木算の中でも基本中の基本、小学4年生の冬の段階で出来てほしいレベルの問題で、彼女はこの時既に小学5年生であった。しかも、この例題を解くのは3度目だった。

 使い古した問題集の例題を前に、彼女は考えているようだった。何をそんなに考えるんだ、と心の中で突っ込んでいたが、賢明にも口は挟まず、あえて様子を窺うことにした。
 私の心配を余所に、彼女はおもむろに計算をし始めた。B5判の計算用紙は瞬く間に数式で埋まっていく。与えられている数字は「200」と「25」しかなかったハズである。何をどう計算すればそんなに数式が出てくるんだッ、と思ったが、これも口には出さなかった。

 私が困惑しながら見守る中、彼女は2枚目の計算用紙に手を伸ばした。どんなに大きな文字で数式を立てたとしても、この問題にB5判の紙を2枚費やすことは許し難かった。私はここに来て初めて口を挟んだ。
「ね……ねぇ、どうかな……出来そう?」
 ここまで控え目に諦めるキッカケを与えてやったと言うのに、彼女はしっかりとした口調で「あともう少しで出ます」と言い放った。
 出る……出るって何がじゃッ! 答えか? 幽霊かッ!? そこに書いている数字は呪文か何かかッ! 主語をはっきりさせんかいッッ!! ──と心の中で絶叫していたが、やはり口には出さなかった。

 2枚目の紙も残り僅か……というトコロまで来て、ようやく彼女は顔を上げた。どんな大仕事を達成してきたのかは知らないが、彼女の顔には高揚感が漲っていた。
 ――出たらしい。
 もう何が出たのかは敢えて突っ込みもせず、「いくつ?」とだけ聞いた。私が求めている「200÷25=8」という数式は彼女の手元の紙には見当たらなかったが、聞いた。それが私の仕事なのだ。
 彼女は「0.02」と答えた。
 あらゆる答えを想定していたが、「0.02」は私の予想を遙かに超えていた。正直度肝を抜かれた答えだったが、私は平静を装い「単位は?」と聞いた。単位が「キロメートル」なら(答えはどうやっても違うが)納得もいく。しかし彼女は「メートル」と答えた。
 誤答には出して良い誤答と出してはいけない誤答がある。まずそれを教えなければ、と切実に思った。
「0.02メートルっていうと何センチのことかな?」
 脇腹の辺りから流れ出る度肝を無視しつつ、私は明るく聞いてみた。
「……20センチ」
 見当違いの所で間違えられると先にも進めない。しかし粘り強く聞いてみた。
「1メートルは100センチだよね……じゃあ0.02メートルは?」
「あ、2センチだ」
「そう、2センチだね。じゃあ2センチってどの位の長さかな? 指で表わしてご覧」
 私はもう算数を教えているのか誘導尋問をしているのかよく判らなくなってきていた。そんな私の思いを知ってか知らずか、彼女は親指と人差指で2センチを表わした。どう見てもその幅は4センチ以上あったが、問題はそんなところにはないので「そうだね」とだけ言った。
「200メートルの池の周りに2センチ間隔で木を植えたら、森みたいになって大変なコトになっちゃうよね。そもそも木の太さがこれくらい(←直径30センチ位の輪を両手で作ってる)あるんだから、2センチ間隔じゃ木は植えられないよね、分かるかな?」
 彼女は頷いた。私には彼女が分かっていないことが分かった。
「えーとね、問題には常識で考えて絶対出てこない答えって言うのがあるんだ。それを考えられる余裕があると、なおいいね」
 ……私は「なお」という言葉の使い方が間違っていることを承知していたが、訂正する気力など、もはや残ってはいなかった。なにせこれから解説をしなければならないのだ。

 ──私の受難は始まったばかりである。



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