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帰国報告


<<- Ennis編E


 さあ、いよいよ戻って参りました、母国日本。不思議なもので、あんなに嫌がっていた帰国だというのに、これがなかなか面白く、当面は日本の暮らしを満喫しております。また直ぐにクッタリとしてしまうのかもしれないので、イキイキしている内にこのささやかな感動を書き留めておこうかと思います。
No. 小見出し一覧 更新日
第1章  はじめに 2003/08/28
第2章  空港→自宅でキた話 2003/10/03
第3章  電気街秋葉原と外国人 2003/10/05
第4章  美容院で知る日本の技 2003/08/28
第5章  スーパーよさこい祭と文化考 2003/10/07
第6章  郵便局に見る勤勉 2003/10/10
第7章  銀行のサービスと過保護 2003/10/15


第1章 はじめに
 アイルランドにいる時には日本に帰国するのが嫌で嫌で、きっと帰ったら鬱になるんだろうなぁ……と覚悟していたのですが、不思議なもので、帰って来てみると意外に息苦しさを感じていない自分を感じます。まぁ、まだ仕事を始めていない……つまりフラフラしているだけなので、息苦しさも何もアータ、って感じでしょーか。

 大都会生まれの大都会育ちで27年間生きて来た訳ですが、この殺人的な人ごみゴミはもう本当に私の身に染み付いてしまっているのね……ということを、帰国数日間でしみじみ実感しました。やはりアイルランド(と言うかエニス)の方が断然好きですし、ああいう環境で生きて行きたいとは思うのですが、なんのなんの。早くもこの大都会のスゴイ雰囲気に慣れ始めている自分がいるのでビックリです。
 ただ単に順応性が高いだけならいいのですが、それよりもやはり「生まれ育った場所」なんだなー……と思ったのであります。

 さて、とりあえず嬉し恥ずかし無職のワタクシ。1年以上会っていない友人と遊ぼう!と思っていたら、皆さん予想通り忙しく、「9月に入らないと暇にならない」とか、「平日はとても遊んでいる時間は……」とか。こんなところからも「日本に帰ってきたのねぇ」と実感できる訳ですが、それはさて置き。相手をしてくれる人がいないので、今は生活環境を整えたり、独りで街の散策をしています。これが結構再発見の嵐で、今まで全然なーんとも思わなかったことに色々感動してる次第です。1年ちょっと母国を離れていたせいで、良くも悪くも日本のスゴサに改めて気付き、今までは一欠けらの興味すら湧かなかった日本の特異性が面白くて仕方ありません。

 「海外に出ると母国の良い点も悪い点も見えるようになる」というのは定説ですが、正直言って、少なくとも私は、アイルランド滞在時に日本の悪いところはよ〜く見えたものの、良いところは余り見えず、母国に対するマイナス感情ばかりを強めて帰って来たのです。
 しかし、どういう心理の動きなのか、帰国した今になって漸く、この国でいちいちアクションを起こす度にプラス面を意識することが出来るようになっています。勿論依然としてマイナス面もセットで思い起こされる訳ですが、マイナス面に関しては自分の中で吟味し尽くしているため、それよりも新たに沸き起こったプラスの感情に自分自身驚いているのです。

 そんな訳で、アイルランド滞在したからこそ見えてきた日本を、私なりにまとめておこうと思ったのでした。


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第2章 空港→自宅でキた話
 さて、つい前述の「第1章 はじめに」で日本のプラス面を考察して行く気満々だったワケですが、それでもやはりこの国には、愛する母国がゆえにガックリ来る面も多々あるワケでして……。何度も言うように、「良い面はたくさんあるが、それを自ら破壊している」という状態の日本を前に、普通にしていたら出てくるのはマイナス面、というのも正直な話なのです。
 そしてこの正直な話を更に正直に話して行くと、まず、日本帰国に散々鬱になっていた私は、日本の地に降り立つ13時間以上前、トランジットのロンドン・ヒースロー空港で既にキていました。ロンドンから日本への直行便へのチェックインのために出来る列ですから、それはそれは今までの15ヶ月間で見たことも無いくらいたくさんの日本人がいるのです。私は別に「金髪碧眼が好き!」という人間ではありませんし、どちらかと言うと「黒髪黒い目は落ち着く」という人間ですから、ただ日本人がいるだけでキたりはしません。

 日本人が多く集まる場所でぐったりする確率が高まるのは、要するに幸か不幸か「どうでもない話」を無意識に拾い取ることが出来てしまうからなのだと気付きました。どういうことかと言いますと、外国にいる限り、それがたとえ勉強してきた英語を母国語とする国ですら、よほど意識しなければ情報は入ってきません。どんなに簡単な会話でも、やはり日本語のように無意識に外界の情報が目や耳に入ってくることはないのです。それが日本語ですと、会話のほんの一部であっても話を推測することができ、口調などから雰囲気も察することが出来る。そうなると、ロンドン・ヒースロー空港のチェックインのために出来た長蛇の列の、前に立った日本人カップルのたった数秒の溜息のような
男 「なんかさー、混んでるよね」
女 「ってゆーかー、外人多いねー」
という会話、世界有数の国際空港で何言ってンの?! 君らが外人だっつのッ!と速攻で突っ込みが炸裂するようなウッカリ会話がするすると耳に滑り込んできて、私もそういう雑音を雑音として聞き流すことが出来ないヒトなので、いちいち疲れてしまうのです。本当にもー疲れてしまうのです。――と言うことで、成田どころか、その前段階、ロンドン・ヒースロー空港で日本入国の洗礼第1弾を受けていました。
 チェックインの待ち時間が長ければ長いほど、この「どうでもない話」は耳に流れ込み続け、久し振りの情報の垂れ流し状態にくらくらするワタクシ。そして同時に、15ヶ月間それなりにご無沙汰だったにも関わらず、意識や努力を全くしないで極々自然に聞き取れてしまう日本語を前に、母国語の威力を思い知るのでした。英語は一生勉強し続けたって、ここまでになるか不安だというのに……。

 成田への直行便に乗り込む乗客は、言わずもがな大半が日本人で、12時間ほど乗る飛行機は日本人ご一行様ワンパックという訳です。別にこれだけでは何てことありません。ナンテコトがあったのは、私の席の横に座った3人の日本人の男の子(恐らく大学生)が、この12時間ず〜っとゲームをしていたことでしょうか……。
 12時間のうち半分くらい映画を観ていた私が他のジャンルのエンタメに走る彼らを非難できる筈もございませんが、ちらりちらりと横を見る度に「今更スーパーマリオかよ」に始まった突っ込みは、「コノヤロウ巧すぎンだよっ」を経て「クリアしちゃったよッ!」に達し、更には「だからってRPG始めンなよっ?!」という驚愕をもって幕を閉じたのであります。
 12時間の空路、ワタクシ途中寝ていることもありましたので、実際のところ彼らがどれだけゲームをしていたのかは知りませんが、少なくともワタクシの目に映っていた彼らは、食事の時以外はほぼず〜っとゲームをしておりました……。
 私は彼らがゲームをしていることだけにガックリしているのではなく、友達同士が横並びになっていながら、会話をする訳でもなく、それぞれがゲームに没頭しているという薄ら寒い事態にもガックリ来ているので、既に状況はガックリのダブルパンチなのです。そらまー12時間喋り続けろとは言いませんが、ちょっとくらいは……。
 基本的に帰国にわだかまりを抱いていた私が、ダブルパンチな状況にコない訳がありません。席の位置は物理的にはエコノミークラスの中では最高の場所で、快適な空の旅に感謝せねばならないほどでしたが、「イマドキの日本のワカモノ」の隣に12時間座ることで、かなり憂鬱になってしまったのも事実です。これが第2の洗礼でした。

 周囲の状況はさて置き、1人1台のモニターが与えられていたため、多少眠くても「そんなもん家に帰れば死ぬほど寝れるわ」ということで、合計3本、出来得る限り映画を観ていました。「日本に帰ったら英語を使わなくなって、どんどん英語力が落ちるんだろうな」という強迫観念から、内容に「?」が飛ぼうと半ば無理矢理英語音声のまま映画を観て、留学最後のヒアリングに臨みます。そんなことをしていたためか、物理的に疲れる12時間の空の旅は、精神的な疲れも相俟って、成田に着く頃には予想程度にヨロヨロです。(←50%は自業自得) しかも25度でも最高気温と騒いでしまう北の国から帰ってきた私にはちと厳しい暑い暑ぅい日本の夏。空気を吸って、肺に重みを感じたのは久し振りです。
 お迎えナシという精神的には寒い帰国ですので、とりあえず25kgのスーツケースを宅急便に預け、残りの15kgをバックパックで背負って京成線に乗り込みます。ここで、第3の帰国洗礼を受けることになります。
 そうです。車内風景――なんスかこの携帯をいじっている人間の割合の高さはっ?! 恐いっスよ、マジで。40代以上のサラリーマンはくたびれたように苦悶する表情で居眠り、それ以下の若者は揃いも揃って携帯いじり……。私がいない1年ちょっとの間に、ある種のマナーは定着したようで、車内に発信音が鳴り響くような場面は確実に減っているようですが、その代わりに増えた「黙々と親指で交信」は、ハッキリ言って病的で薄ら寒い光景でした。

 ひ〜え〜と竦む私にトドメを刺した第4の洗礼は、子供の親に対するぞんざいで横柄な態度でしょうか。同時に、親の子供に対する変に媚びた態度にも驚きました。これは私が日本にいた頃から感じていたことですが、それが悪化しているではありませんかっ! まず、親子で電車に乗り込んだ場合、親が子供に席を譲るという非常識が既に完全に定着しています。少なくとも東京では。「子供に席を譲る親が増えてきた」という過程を経て、今ではほぼ確実に親が子供に席を譲っていますし、逆のケースを見付けると「お! 珍しい」と思う始末です。ちなみに、帰国1ヶ月以上経ちますが、今のところ親が子供を立たせているケースは1度も見たことがありません。
 健康体の子供を優先的に座らせるというのは、末期も末期。本当に子供が可愛いなら立たせろ、と私は思っており、私の周りの人間に聞く限りは皆一様に「ヤバイよね」という同種の意見を聞くことができるのですが、しかし実社会で親が子供に席を譲る場面は少なくない、どころか、既に「当たり前」の域に達しています。
 骨の成長には垂直方向に力を加えることが必要不可欠で、子供のウチに骨を作らなかったら一体いつ作るの? ただでさえ運動不足傾向の高い現代っ子なのに……という物理面の心配も然ることながら、年寄りに席を譲らない子供というのは、そのまま、根性がない、思い遣りがない、想像力がないという、ないないづくしの子供でもあり、親は子供に席を譲ることで、自らこういうダメ人間を一生懸命育成しているのです。そしてそれは、本格的にヤバイことなのです。

 最近の異様な少年犯罪を評して、「人の気持ちが分からない子供が増えた」などと抜かしていますが、「だってそういう風に育ててるんだもん。当たり前じゃん」と私なんぞは思います。
 親が子供にすべきことは、年寄りにとって普通に生きることがいかに大変で、そういう相手に席を譲るのは立派な(……ってか普通なんですが)行為なんだよ、とか、子供が正しいことをした時に思いっきり誉めてやることとか、そういうことである筈なのに、なぜこんなに歪んだ可愛がり方が横行しているのでしょう……。子供が我儘勝手に育っても良いのでしょうか……? どうしてこういう当たり前のことに気付かないのか心底不思議です。

 親が子供に席を譲る場面をいきなり帰国初日に2件も見せられ、グッタリした頃には実家の最寄駅です。
 久し振りに見る人込みに、そこまで嫌悪感を抱かなかったのは、例によって例の如く、覚悟が大き過ぎたからかもしれません。しかし、道行く人々の小ささに非常に違和感を覚えたものです。自分が比較的ガッシリ系であるせいか、男も女も小さくて薄い印象を受けました。

 15ヶ月ぶりの実家を見ての感想は、本当にただひとつでした。「小っちぇ〜っ!」――コレだけです。天井が低い、机が低い、洗面所が低い、椅子が低い、すべてが低い、ついでに両親も低い。母との身長差が20センチくらいありそうでちょっと恐かったです。
 しかし、懐かしの我が家……という気持ちには全くなりませんでしたが、15ヶ月のブランクを感じない自分に、ああ、こりゃ速攻で日本の生活に戻るな……と思ったのでした。――そしてその予感は正しかったのであります。


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第3章 電気街秋葉原と外国人
 帰国早々私がしたことは、部屋の掃除ではなく、英語力維持のための環境作りでした。アイルランドでダビングしまくったリスニング・テープの再生環境作りのため、カセットテープ再生機(カウンタ付き)やカセットウォークマンの購入を検討せねばならず、それと同時に日本で可能な英語力(特にリスニングとスピーキング)維持方法の検索、その他、携帯電話の購入も考えなくてはなりませんでした。
 モノの購入に関しては、アイルランドに行く前からネット通販やネットオークションを利用していたので、同様の手順を踏みますが、再生対象メディアがカセットテープと時代に逆行しているため、なかなか良いものが安く見付かりません。携帯電話を購入するにしても、取り敢えずは実物を見ておく必要があったため、仕方なく、恐らく日本一の電気街秋葉原に足を運ぶことにしました。

 留学先がアイルランド(しかも更にその中でも田舎)だったということも主な原因だとは思いますが、15ヶ月ぶりに降り立った東京・秋葉原は、覚悟していた以上の超ハイテク先進都市でした……。まず、ウォークマンやカセット再生機、携帯電話やブランクの CD-ROM を購入しようと商品見学のために秋葉原の大通りに繰り出し、久し振りにあの一種独特の人込みの中を練り歩いた訳ですが、携帯電話や電子手帳、電子辞書、MD/CDウォークマンがまるで市場の野菜や果物のようにぞんざいに路面にディスプレイされているのを見て、やっぱスゲェなこの国は……としみじみ思いました。


秋葉原の大通り
異国の友人たちに、この秋葉原のある意味極限状態の風景を見せてあげたくて、
持ち歩いていたデジカメで店頭ディスプレイなどを撮っていると、
日本人の若者から「中国人だろ?」と馬鹿にしたように囁かれてしまったのも、
ま、良い思い出っちゃあ良い思い出です……。


 しかも、CD-ROM だと思って手に取ったのはなんと DVD-ROM! 今って DVD のコピーも出来るんスかっ?! 勿論映画など商用 DVD にはプロテクトは掛かっているのでしょうが、DVD のブランクメディアが出た時点で、そういうプロテクトを解除する方法は直ぐに広まるのは目に見えています。イイんスか?! いやはや衝撃デカイっす……。
 私も時々音楽ファイルのコピーをしている身なので、こんなことを言える立場ではないのですが、それでも、この法の整備が追い付かないほどの突出した技術革新とは裏腹に、音楽、映画など著作権が関わるような業界の権利の保護や常識の定着はまだまだ、と思わざるを得ません。何も著作権絡みの話だけではなく、インターネットや携帯電話という新しい、しかし物凄い速度で一般市民の生活に浸透している文明の利器を前に、常識とマナーが追い付いていない様は見るに痛々しく、時に恥ずかしく、何はともあれ、やっぱスゲェなこの国のチグハグさは……という結論に至るのでした。

 さて、文明の日進月歩への驚愕とは別に、秋葉原を歩いていて最初に感じた違和感は、外人の多さです。それも、視覚的には1年前とそんなに変わらないと言うのに、聴覚的には驚くほど外人が増えていると感じました。――そう、ぱっと見る限り日本人だらけなのですが、擦れ違う人が結構な確率で中国語や韓国語を喋っているのです。よくよく周囲を見渡してみると、英語以前に中国語や韓国語の店頭説明や放送も増えているし、店員も日本人でない人がチラホラいるではありませんか。
 ちょっと前は外見の似て非なる彼らを見付けると一見しただけで「日本人ではない」と分かったのですが、今ではぱっと見ただけでは外国人とは分からないほど溶け込んでいる人が多いように感じました。勿論、依然として一見しただけで外人と分かる中国人や韓国人もいるのですが、少なくない率のアジア人は、その服装や携行品から、旅行ではなく住み着いているのだと伺えます。

 日本の流行のファッションを身にまとい、メイクや髪型も日本の流行をなぞっていて、更には日本の最新の携帯を使用している――偏見以前に、土着外人の急増に本能的な恐さを感じてしまうのは、やはり私が単一民族国家出身だからなのでしょうか。つい先日までは、アイルランドと言うヨーロッパの島国で私もれっきとした「土着外人」だったと言うのに、我が身の経験を目の前の状況に重ね合わせることがなかなか出来ません。一部の犯罪者のために善良な人々をも一括りにして恐がるのは以ての外と思い、本当に申し訳ないとは思うのですが、彼らの堂々とした態度を見ていると、つい息を潜めて様子を伺ってしまうような面があるのです。
 多分、今の日本で外国人に対して何の感情も抱かない人は少ないでしょう。どちらかと言うと漠然とした負の感情を抱いている人の方が圧倒的に多いと言い切ることすら出来るのでは……と思います。そしてそういう現状を様々な角度から目の当たりにする度に、私たち日本人がいかに「保守的」で「排他的」な「島国根性」を根強く持っていることに気付くのでした。
 ただ、では西洋人が急増したとしてこのような感情になるのか、というとちょっと想像できないので、この外人に対する警戒心がすべての外人に対してなのか一部の外人に対してなのか、微妙なところではありますが……。

 一部の外人――ハッキリ言えば主には中国人ですが、彼らに対する感情は歴史的な背景も相俟って複雑です。ただでさえ取り扱い注意な話題なので余り断定した言い方はしたくないのですが、とりあえず私がここで書いていることは、当然私の個人的見解に過ぎないことをご了承ください。

 世界のどこに行っても嫌われてしまう傾向の強い中国人と、(馬鹿にされることはあっても)嫌われることは少ない日本人という大雑把な一般認識は確かに存在し、アジアではともかく、西洋人が外見で私たちを区別できる筈もありませんので、これは国民性が原因なのでしょう。
 例えば具体的に、中国人がアイルランドで嫌われている原因は、主には中国マフィアの存在のようです。単純に危険だから、という訳です。しかし普通の生活で市民が中国マフィアの存在を実感するような場面はそうそうある訳ではなく、市民レベルでの感情としては、「中国人が仕事を奪うから」ではないかと伺える節がありました。とにかく中国人は安い給料でよく働くため、彼らが職場に参入してくると、地元民は非常に迷惑と、こういう訳なのではないかと。そしてこれは日本でも同じではないかと思います。
 他には、やはりどうしても金銭的なトラブルが多いようでした。

 彼らはどこに行っても中国人同士でつるみ、地元民どころか外人とも馴染まず、果ては中国の香りなど一切なかった場所に堂々と「中国人街」を作り上げ、自国の文化を頑なに貫き通します。私も数々の語学学校でそれぞれ中国人を見てきましたが、彼らの人的ネットワークは本当に物凄いのです。既に中国人がいる町や都市に新しい中国人がやって来た場合、翌日にはその新人は古株たちと一緒に生活している、というくらい人的ネットワークが確立していますし、彼らの同朋意識は良し悪しを通り越して、多少恐く映るのも確かだと思うのです。同時に、この人的ネットワークこそが、貨幣価値の低い中国に生まれた人間が外国で生きるための必要条件なのだろうとも思いました。
 その点、日本人は彼らのようにつるむことはありません。これは国民性もさることながら、主には経済的な豊かさが基盤にあってのことではないかと私は思います。日本人は衣食住に関して他人に頼らずとも自分の金で解決できるので、行動は個々自由になり、「生きる」という最低ラインに必死になることもない。バイトなども外国でするよりは日本でした方が時給も良いので、わざわざ海外で躍起になって金稼ぎに走らない――要するに、(経済面の)生活態度に余裕があるのです。
 また、自国の文化に対する意識の低い日本人は、良くも悪くも海外で自国を主張しません。勿論、全く主張していないとは言いませし、中には日本文化を全面に出している方もいらっしゃるかもしれませんが、中国やインドなどとは比較にならないレベルであることは明らかです。良く言えば順応性がある、悪く言えば、自国流儀を押し通す愛国心もガッツもないのです。そういう無色透明さが、海外に出た場合に「邪魔にならない」と好ましく映るのかも知れませんが、私個人としては自国愛の薄い日本を寂しく思います。

 そもそもの国民性の持つ人畜無害さだけではなく、日本の最先端のテクノロジーは、時として海外にいる日本人の背景を保証してくれる最高の札にもなります。海外でデジカメやウォークマンの陳列棚を何気なく見たときに、日本製品の締める割合、日本製品における信頼度などを目の当たりにし、本当にちっぽけな日本がよくもここまで……と感動すらしました。SONY、Panasonic、MITSUBISHI、HONDA、SUZUKI は世界語で、日本(人)に対するステレオタイプの良いイメージと言えば「真面目」「賢い」「信頼できる」「ハイテク先進国」「金持ち」などを挙げることができ、正しく秋葉原はその物質的な表現形のようにも見えてきます。
 まぁ時代は変わってしまったようで、ポルトガルで出会ったポルトガルに4年ほど住んでいる日本人女性はこう言っていましたが……。
「もう今は日本なんて見向きもされていないですよ。新聞でもテレビでも、今は中国の動きに注目していますね」
 とにもかくにも、中国という国はかなり癖が強く、日本人が半ば本能的に彼らの急増を恐がっているのは、何も日本人の考え方だけに問題がある訳ではないと、私は思うのでした。

 話を日本における外人急増の現実に戻します。
 ふと街を見渡せば、アジア人の急増ほどではないにせよ、西洋人も増えたように感じます。「ワールドカップ辺りに外人が急増して、ワールドカップが終わって減るかと思っていたら、そんなに減らなかった」という意見もあるようですが、ま、恐らく現在世界中が不景気なのでしょう。そのためビジネスチャンスやそれ以前の就職口があるところに人々が集まるのかなぁ……と。
 日本は承知の通り不景気で失業率も高いけれど、その一方で、というか、それ故に国際的なビジネスは拡大しており、外国人労働者の参入が容易くなったのかな……と考えているのですが、真偽の程は分かりません。ただ、景気、不景気に関わらず、国境が無くなりつつあるのは確かな流れなのかもしれません。たとえそれが島国・日本でも、例外ではないのでしょう。

 しかしこれは以前から感じていたことですが、まぁ〜彼らは英語の浸透率の低い外国に来ているにも関わらず、当然のように英語を使い続けますねぇ……。そして日本人もそんな彼らに合わせて、英語を使おうと努力してしまいますねぇ……。
 ――ここは日本です。仕事でもない限り、私たちが英語を使わなければならない義理はないのです。
 スペイン旅行をした時に決定的に感じたのですが、スペイン人は私が英語で話し掛けようと、怯むことなくスペイン語で返事をしてくれます。それはそれは親切に道に迷った私の面倒を見て下さいましたが、会話はすべてスペイン語。「one two three」すらも使ってくれませんでした。私がチンプンカンプンでも彼らは全く構わないのです。同時に、私が英語で聞いても、分からなくてもとりあえず私と向かい合ってくれます。どこまで理解しているのか、時々相槌なんかも打ってくれた人もいます。「英語できないから」と、私の質問を無視する人は滅多にいません。互いに言葉が通じない状況下でも、質問すれば耳を傾けてくれ、推測に基づいた(←重大なポイント)回答をくれようとする――すると誠意は伝わるし、私も感謝こそすれ、「英語話せよっ!」なんて思いません。思えません。

 そして日本ですが、日本では外人に英語で話し掛けられると、英語が話せない場合、相手が何を言っているのか理解しようともせずに慌てて「あ〜ダメダメダメダメ! 英語できないからっ!」と半ばパニック状態です。外人が日本人に話し掛けるとしたら、大抵は道に迷ったか、操作手順システムの説明か、要するに簡単な質問でしょう。名詞と身振り手振りだけで70%は伝わります。もうこうなると、語学力の壁ではないのです。
 思うに、日本人の大問題点は英語力云々ではありません。単にコミュニケーション下手ということなのです。だから、言葉が通じる筈の日本人同士でも理解し合えない。
 酒の席でないと本音を語れない。苦情と文句と独り言の区別がつかない。たった今別れたばかりの相手にメールを送る。主題のないメールを細々送る。横に座っている人間にメールで用件を伝えようとする。人の目を見て話すことが出来ない人がチャットでイキイキと語り出す……。
 異常だっつのッ!

 行間を読むのが日本人の大特徴ですが、それは互いに理性と知性と同じ背景がある場合だけにしておいて、行間が読めない相手に出くわしたときは、推察力、洞察力と度胸をもって……と言うよりも、単純に人との係わり合いを楽しめば良いだけだと思うのでした。
 本当は、他人との係わり合いが一番面白いのに、日本に帰ってきてから既に1ヶ月以上経ちますが、道行く見知らぬ人といきなり会話が始まったことはたったの3度ほどしかありません。エニスにいた頃は1日に5〜6回は全く知らない人とのお喋りがあったのになぁ……。
 ま、片や田舎国の田舎、片や先進国(……一応)の首都で、比べる対象が全く違うのは分かっていますがね。

【追記】
 日本人のコミュニケーション下手について、親日家のドイツ人のこんな面白い見方もご紹介しておきましょう。
「多分、日本人はとても責任感が強いんじゃないかな。だから、道で他人と挨拶を交わさない。挨拶を交わしたら、多少なりとも縁ができる。縁が出来たら、その人に何かあった場合、助けなくちゃならない。なぜなら知人である以上、責任があるから。そして日本人は責任を負いたくないと考えている。だから他人と知り合うのを避けている。責任を負うのを避けているってことだね。
 外人に道を聞かれて、相手が何を言っているか理解しようともせずに端から拒絶するっていうのも、『間違った情報を教えるくらいなら、教えない方がいい』って思っているからじゃないのかな? スペイン人は確かにどんな場合でも答えをくれるよ。しつこいくらいにね。でも、その情報が正しいかどうかは疑わしいよ。実際、彼らは間違った情報を言葉が不自由な旅人に教えて、その後その人が再び道に迷って困ったとしても、関係ないんだよ。罪悪感なんて沸かない。平気なんだ。その場その場で『自分は教えてあげたんだ』っていう自己満足みたいな感情があるんじゃないかと、僕は思うよ。
 確かに、こっちの言っていることを聞きもしないうちから『あーダメダメ分からない』って言われるのはいい気はしないし、温かみを感じるのはスペインの方だけど。これも国民性なんだろうね」

 この意見全体としては「う〜ん……分かるような分からないような……どうかなぁ……」という半々の気持ちですが、「日本人はとても責任感が強い」という部分は、疑いなく頷ける言葉です。時代と共に薄れつつある美点だと思いますが、依然として、諸外国に比べて「日本人は責任感が強い」とは思いますね。個体差はあれど、平均の話として。本当に。しみじみと。

【「日本の凄さ」についての関連日記】
 2002年10月21日(月) 「ハイテク大国日本」
 2002年12月9日(月) 「文具大国日本」



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第4章 美容院で知る日本の技
 恐らく多くの日本人長期留学生が帰国後に目指す場所――それが、美容院ではないかと思います。ワタクシも類に漏れず、帰国2日後に早速美容院を訪れました。
 滞在記本編2003年6月8日(日)の日記で書いたように、アイルランドの美容院は、言ってしまえば髪を「ただ短くする or 切り揃える」ための場所であり、新しいヘアスタイルにするための場所ではありません。「Hair Salon」などと銘打ってありますが、私は心の中で「散髪屋」「床屋」と和訳しており、そういった意味で言うならば、少なくともアイルランドに「美容院」は存在しません。
 私はアイルランド以外の国に長期滞在した経験がないので分かりませんが、ネットや周囲からの体験談を聞く限り、これはアイルランドに限られた話ではなく、要するに「東洋人の髪質は西洋人のそれと全く異なり、髪の量が多くて太い東洋人の髪はカットもセットも難しい」という通説から派生して、ヨーロッパ全域の Hair Salon が日本人にとっては「散髪屋」に過ぎないという結果になるようです。

 さて、前回髪を切ったのは2ヶ月以上前で、アイルランドにいたならば長さ的、形的に不満はありませんでしたが、スチーム大国日本に帰ってきて「髪の毛は1mmでも短い方がイイ」という結論に落ち着き、とっととサッパリしてこようということになったのであります。
 出国前にお世話になった美容院を約16ヶ月ぶりに訪れます。友人から勧められた方に担当してもらっているのですが、有名雑誌モデルのヘアスタイルなどを頻繁に受け持っているプチ売れっ子で、毎度毎度私の五里霧中ちっくなリクエストに本人の意図以上に明確に応えて下さり、彼に頼んで「失敗した」と思ったことは1度もありません。そして今回も言葉少なくテキパキと私の髪を切って行く彼に、兼ねてから聞いてみたいと思っていたことを質問してみました。
鷹瀬 「やっぱりこの業界……ヘアデザイン業界って言うんですか? 日本は世界的に見てもかなりハイレベルなんですかね?」
美容師 「うーん、そうですね。僕は興味がないから出たことないですけど、世界大会とか、日本人がしょっちゅう優勝してますよ。やっぱりこの日本人の髪質っていうのはとても難しいから、普通にカットするだけでそれなりにスキルが必要になって来るし、新しいカットの仕方をどんどん取り入れている日本は、ハイレベルというか、世界一なんじゃないですか? ロンドンやパリの有名店で切って来て失敗した、って言って帰ってくるお客さんとかもいますし。僕も実際に行ったことありますけど、日本の方が全然レベル高いですよ」
 アイルランドと比較して日本の方が勝っているとは思っていましたが、世界レベルで見て1、2を争うような位置にいるとは知りませんでした。……そうかー本当に凄いんだ……と感心する私を更に煽るように、美容師さんの手際の良いこと良いこと。何故にこんなにも手際が良いのか……とウットリしてしまいます。
 話はヘアカットからファッションに移行してゆきます。
美容師 「ファッションもそうでしょ。パリなんか極々一部の人を除いて、結構皆ダサイ格好してるしね」
鷹瀬 「ええ?! そうですか? 私、パリに行った時、街も人もお洒落でお洒落で、『本当に凄いなこの国は』って思いましたよ」
美容師 「えー? そう? 着てるものとか、結構ダサイよ。東京の方がよっぽどお洒落でしょ。ヨーロッパでは……そうだな、僕はロンドンの方がお洒落だな、って思いますけど」
鷹瀬 「ロンドン……は、なんだか東京に似てるな、って印象があって、人々がお洒落かどうかは印象に残ってないですねぇ、私は。パリのお洒落の方が印象に残っているけどなぁ。ま、パリなんかだと、着ているものが別に普通でも、スタイルが良かったりするから格好良く見えるのかな? やっぱり頭が小さくて手足が長いと、何着てても格好良く見えますしね。日本人はお洒落と言うか、ま、色々ゴテゴテ飾ってるって感じで、私はあんまり魅力を感じないですけどねぇ」
美容師 「スタイル云々の話をしちゃうと、まぁそれは……。でも、東京なんか世界最先端を行ってると思いますよ。ロンドンやパリ、N.Y.なんかのショップで扱っているものは、ほぼリアルタイムで東京に来てますしね」
 東京の方がパリよりお洒落だという見方は、私の中には微塵にもないものだったので、専門家はそう見るのかーと非常に驚きました。恐らく私のイメージする「お洒落」と彼のイメージする「お洒落」は微妙に違っているんだろな、とも思いますが、何にせよ、この小さな島国の異様なまでのポテンシャルの高さを痛感せずにはおれません。だってもう、この話をしながら見る、鏡に映る彼の手捌きの鮮やかさと言ったら、ショーの域に達しています。そしてこれは何も彼が特別なのではなく、このくらいのスキルを擁する美容師は日本にはゴロゴロいるという点に、敬意を通り越して圧倒されるのです。
 日本を出たことがなかった時には「こんなもの」「当たり前」と思っていたことですが、外を見て初めて日本人のあらゆる分野での技術力を認めずにはいられず、誇らしい気持ち9割の中に1割の息苦しさを感じてしまうのもまた事実なのです。

 日本は恐らく世界有数の職人精神の根付く国だと思います。未だに転職が難しいこの雰囲気は、もしかしたらここら辺りの意識の名残なのかもしれません。
 例えばアイルランドでは転職は非常に簡単です。アイルランドで出会った西洋人たちから話を聞いても、「携わる職業、業界をコロコロ変える」というのは彼らにとってそう珍しいことではなく、「ヨーロッパ全域で」と言ってしまってもいいのかな、とさえ思います。日本でも最近は転職しやすくなって来たとは言え、西洋にはその比ではない個々の人生こそが主体であるという意識の高さを感じます。これは西洋の「自由で人生を楽しむ人間的な暮らしが当たり前」という雰囲気を醸し出す一要因にもなっていると、私は思います。彼らは自分自身や家族のために人生を捧げるのであって、会社やお国のために個人の人生を捧げるのが珍しくない日本人の生き様は、彼らにとって理解不能なだけでなく、そもそも実行不可能だと思います。

 働く側、つまり大多数の一般市民から見ると、この西洋的社会システムは「何歳からでも新しい業界に簡単に飛び込むことが出来ていいなぁ」と思うのですが、同時に、職人(プロフェッショナル)の存在しないアイルランドを見て、日本のこの息苦しい状態こそが、何の分野でも世界に誇れる高度な技術を擁する職人文化を育んだのかな……と気分は複雑です。保守的だから職人が育つのか、職人精神が根付いているから保守的になるのか……。

 器用で勤勉で真面目で小才が利く――日本には世界のトップに食い込める要素としての良い面もたくさんあります。帰国たったの数日だというのに、あらゆる場面でそれを痛感しています。そして同時に、その美点に、自己犠牲精神旺盛、妙に強い責任感、何もしないことに対する罪悪感、忍耐力の強さ、自己主張の弱さなどが相俟って、世界有数の「国民が人生を投げ打って働き蜂と化す国」という悲しい側面も見えて来るのでした。
 本当に、ちょっと意識を変えるだけで、「優秀でありながら優雅」を実現できると思うんですけどねー……。これも文化背景を背負った国民性なので、そうそう簡単には変えられないのでしょうか。

【「散髪」についての関連日記】
 2003年6月8日(日) 「素人散髪式」



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第5章 スーパーよさこい祭と文化考
 帰国翌々日、8月24日の日曜日――たまたま表参道を歩いていたら、大通りを挟んで道の両側に大勢の人だかりが……。ナニ?と思ってその場に留まり、人々が待つ「何か」を一緒に待っていると、現在風にアレンジされた祭囃子のメロディに合わせて、若者たち(正確には老若男女)が踊りながらパレードしているではありませんか。よくよく周囲を見渡すと、どうやらこのパレードは「スーパーよさこい祭」なるもので、全国で勝ち抜いてきた団体が、この大通りで次々にパフォーマンスをするというのです。
 うわもうこういうの大好き。

 私は音楽に拘りを持っておらず、普通に売れているようなものは大抵「好き」です。ヘビメタやハードロックとなるとさすがについて行けませんが、クラシックもポップスも伝統音楽も演歌も中島みゆき(←既にジャンル化)も、本当に拘りなく、強いて言うなら「アップテンポな曲が好き」という程度の好みで音楽を愛でています。
 少々拘りが出てきて「大好き」なジャンルとなると、インド映画音楽と急にマニアな回答に傾くのですが、この日、スーパーよさこい祭を見ていて、日本の祭囃子、モダン化した一種の日本伝統音楽が愛しのインド映画音楽に匹敵するほど私好みであることに改めて気付きました。
 また、音楽に加えて同じ衣装を身にまとった踊り子による群舞――「歌と踊り」と来れば血沸き肉踊るほど大っ好きな分野です。

原宿表参道元氣祭 スーパーよさこい2003
何だかんだと3時間くらい見学してました

 今回のスーパーよさこい祭で行われたパフォーマンス・パレードは、衣装にしろ音楽にしろ舞踊にしろ、伝統的なそれとは少々異なっているものも多く、大半が現代風にアレンジしてあり、見る人が見たら眉をひそめてしまうような面もあるようですが、私的には着物やお囃子といった日本独自の文化が廃れるよりは、新しい形に変化してでも生き残る方が嬉しいですし、若者が着物をファッションとしてカッコイイと思うのはとても前向きで粋な精神状態だと思います。
 それに何よりも、こういうことに取り組んでいる人たちは問答無用にキラキラ輝いていて、見ていて暖かい気持ちになるのです。こういう人たちもいるんだ……と、ほっとするのです。

 さて、ここでいきなり文化考ですが、あるインド人が、日本とインドの文化に対する姿勢の違いを非常に明確に言葉にしていたので、ご紹介しましょう。
「日本人にとって文化は守るもの、保護するものなんですね。だから、生活の中に文化が溶け込まずに、綺麗な箱に入れて遠くから眺めている。僕たちにとって文化は育てるもので、生活の一部なんですよ」
 ごく普通の日本の結婚式の写真を見せた時の、インド人の友人の?(ハテナ)だらけの反応も印象に残っています。
「何コレ? タキシードにウェディングドレス? これが日本の結婚式なの? 日本には伝統的な衣装はないのかい? 確かKIMONOとかいう……あるのに着ないの? しかもこの会場って教会? この人たちはクリスチャンなの? 違うのになんで教会で結婚式を挙げているの? じゃあこのカップルは何に誓っているの? 日本では結婚式に伝統的な行事をしたりしないのかい? えぇ? 結婚式は教会で挙げて、葬式は寺でするの? トーコは着物を着たことがないの? なんで?」
 恥ずかしながら私、独りで着物を着ることが出来ません……。
 本当に、英語の幼少教育に力を入れる前に、自国文化の教育に立ち返る方が先だと思います。私も含めて、多くの日本人が自国のことを知らなさ過ぎますし、文化の育成どころか保護さえも危ういのが今の日本の現状です。そしてそれは非常にヤバイ状態と言えるのです。
 何しろ文化は国の財産ですから、それを省みない……どころか破壊しているとなれば、それはもう自ら首を締めているようなもの。何も男はちょんまげに袴、女は着物に簪というような極端な立ち返りを叫んでいる訳ではなく、もっと普通に生活と文化を密着させ、そこに日本独自の感覚を篭めていってもいいんじゃないかと思うのです。

 とにかく現在の明確な問題点は教育不足と言えるでしょう。子供たちの興味以前に、そもそも国が自国の文化を保護する気がない。だから、国民に教える気もない。文化を育成する気なんか更々ない。
 日本国民の自国文化に対する愛情の欠如は、言わば当然の成り行きだと思います。知らないものをどうして愛せましょう、誇りに思えましょう。理解不足が招く惨状を解決できる道はただひとつ、教育です。これはお題が何であれ、なのです。そして日本の教育システムはボロボロだと言わざるを得ません。
 ゆとりと甘やかしの区別もつかないこのメタメタな現状を、私は非常に危ういと思っています。本当の教育の自由とは、ゆとりとは、脳が柔軟な時に、出来得る限りの幅広い知識を紹介し、学問の魅力を存分に感じ取ってもらい、上質の思考訓練を施してやることであり、円周率「3.14」 を「3」にすることではありません。脳を退化させる計算機の使用を許可することではないのです。
 子供たち全員に同じ評価を下すことが「教育の平等」と勘違いしている教育要綱では、子供の個性を伸ばすことなんか出来る訳がありません。本当のゆとりとは、「テストの点数が悪い」=「悪い」と決め付けるのではなく、では何が得意分野なのか、何を理解していないのか、ということに向き合わせてやる余裕を与えることではないかと思うのですが……。

 話が少々「教育」に逸れたので、「文化」に戻します。
 国際化が進む中で、日本は欧米に追従し、自国の特色を完全に捨てつつありますが、欧米の真似をしている限り私たちはいつまで経っても亜流であり、世界的に「一人前」として認められるのは難しいでしょう。これだけ国境がなくなりつつある今だからこそ、日本文化に立ち返り、他者との違いを愛し、違いを誇りに思わなければ、日本が世界から敬意を払われることは永遠にないと思います。――そう、「違いを認める」という日本人が何よりも苦手としている壁を越えなければならないのです。日本は「人と同じ」が大好きだからなぁ……。
 ハッキリ言って、今の日本は独立した国であると認められている気がしません。アメリカの属国、中国の一部――そんな意識すらまかり通っていますし、その上堂々と馬鹿にされています。日本に対する世界の態度は「金だけ出してりゃいーんだよ」という舐め切ったものであり、哀しいことに日本はそれを粛々と受け入れて(……ってか馬鹿にされていることに気付いてすらいない模様)、既に抱えている莫大な借金を、誰にも感謝されないまま更に増やして行くのであります(涙)

 頑張れニッポン!

【追記】
 北野武の「座頭市」がヴェネチア国際映画祭で監督賞を取ったのは、あの映画が分かり易いくらいステレオタイプに日本的だからだと思っています。それだけが理由と言い切る訳ではありませんが、「侍」「刀」「居合い」「芸者」「着物」「三味線」「藁葺き屋根の家」「腹切り」という現代日本の日常生活には何ひとつ残っていないアイテムに、欧米人がいかに喜び感動するか容易に想像できます。本当に彼らは驚くほどに「忍者」「武士」「侍」「芸者」といった記号的アイテムに弱いのです。ええ、そらもう。(……私も弱いし)


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第6章 郵便局に見る勤勉
 包み隠さず正直に告白しましょう。私は渡愛以前、「郵便局とか役所とか、一体あの淀んだ空気は何なんだ。公務員はクズだね」と思っていました。こう書くと激怒する方もいらっしゃるかもしれませんが、恐らく「全くだよね」と同意する人間の方が圧倒的に多いと、畳み掛けるように思います。ただ皆さん直接的な言葉を使わないだけで、考えていることは同じなのではないかと……。
 例によって例の如く、私が話しているのは一般的、平均的な話であり、どんな分野にだって例外はありますし、世の中の公務員全員がクズだなどとは思いません。しかし私から言わせれば、たとえ新人の頃はテキパキ、キビキビとしていたって、あんなに淀んだ空気の中にいれば、1年で淀むがな、というのは真っ当な流れだと思います。「ダメ」は息をするよりも容易く増殖しますが、「立派」はそう簡単には広がらないので今の日本があるのです。

 他の地区はどうか知りませんが、私の住居区の役所の人間は、何か重病でも患っているのかと疑いたくなるほど動きが緩慢でした。いえ、「緩慢」では字面が綺麗過ぎます。私の怒りを篭めて表現するならば、「愚鈍」の方がしっくりきます。留学必要書類である住民票を作りに行ったとき、怒りを通り越して呆れたのは記憶に鮮明です。
 役所とは市民との対話が最も重要な仕事なのかと思っていましたが、町内会のお偉いさんと週末ゴルフの計画を立てることが彼らにとっては優先されるべき仕事なようで、「すみません」と呼びかける市民には目もくれず、お約束のように現れたボスキャラ(=町内会の顔役)に群がっている彼らを見たときには、真剣に「貴様ら最低線の仕事はしろっ!」と怒鳴りつけてやりたくなりました。勿論、やっていませんが。

 郵便局の方は、実は数年前から態度が改善されつつあると感じていました。やはり他の地区ではどうか知りませんが、局員全員が名札装着を義務付けられた辺りから、年を追うごとに当初のあからさまなダルイ態度は鳴りを潜めたように思います。まぁ、元が酷すぎるという現実もある訳ですが……。
 我が家から最も近くにある郵便局では、1人を除いてほぼ全員が普通に仕事をこなしています。普通でない唯一の人物が最年長の男性(50代、恐らく局長)で、この方の存在を快く思っていないのは市民だけでなく局員ものようです。いえ、付き合う時間が長い分、局員こそがこの局長(仮)を疎ましく思っていると言っても過言ではないでしょう。
 局長が空気を読まずに忙しく仕事をしている局員に話し掛ける度に、局員は客の前であるにも関わらず、殺意が見え隠れする対応をします。長年勤めていそうなお局さま的な女性が、「ねぇ、これなんだけどさ〜」と緊張感なく話し掛ける局長に向かって、言い終わる前に「後にして下さいっ!」と厳しい声で吐き捨てるように言った時、さすがにその場の空気が凍りましたが、局長に同情的な局員はおらず、客(=私)から丸見えの場所で局員同士が目配せし合っているのを見たとき、「ああ、きっとこの局長の方に問題があるんだろうなぁ……」と、9人程度しかいない小さな郵便局における「どろどろな人間関係」が浮き彫りにされるのを結構頻繁に確認していました。
 このトンチキ小僧……もとい、局長が心の底から嫌悪されている様子が滲み出るこのような光景は、そう珍しいものではなく、特に人々が生理学的に倦怠感を感じてしまう昼過ぎなどにこの郵便局を訪れると、局員全員からの「局長、邪魔っ!」というオーラが発せられていてスゴかったです。そして局長は、皆の期待に応えるように、まぁ見事に仕事をせずに狭い職場を彷徨っているのです。

 the nearest post office の話はもうイイ。話を戻します。
 このように旧態依然のダメ公務員の人口比率の少ない職場では、徐々に改善の兆しが見えているようですが、職員の人数が増え、年齢層が上がれば上がるほど、職場に立ち込めるどうしようもないダメな空気は濃密になってゆき、そういう彼らと共に働く新参者も、その淀んだ空気に染まって行く……ということなのかもしれません。
 郵便局でバイトをしたことがある人に言わせると、「若い職員よりパートのおばちゃんの方がよっぽど手際良いよ」とのことでしたし、コンビニなどでも下手な若者よりも中年の女性の方がよほどよく働くし、礼儀正しいし、仕事が出来るケースも多々ありますので、年は関係ないかもしれませんが……。

 さて、上記が私の渡愛前の公的機関への評価でした。つまり、改善の兆しが見えつつあるが、基本的には充分に通常企業以下。2002年5月まではこう考えていた訳です。
 ――そして2003年10月。事態は一切変わらずとも様々な経験をすることで同じ事態に対する見方が大きく変わることは、そう珍しいことではありません。そしてそういう珍しくもないことは、私の身にも起こりました。15ヶ月間「おそらくヨーロッパで平均ちょい以下のダメな国」ではないかと思われるアイルランドで生活し、その合間合間にドイツ、フランス、イギリス、スペイン、ポルトガルとヨーロッパ諸国をちらちらと覗いた訳ですが、彼らヨーロピアンの平均的仕事能力の低さったらもー感動モノでしたよ。
 誤解がいないように明記しておきますが、私が言っているのはあくまでも普通の人々の仕事能力を指します。エリートは恐らくどこの国にも少数存在し、そういった人々はもしかしたら日本のエリートよりもよりエリートなのかもしれませんが、とにかく日本の凄いところは裾野のレベルが非常に高いということなのです。普通の……本当にどこにでもあるような店に飛び込んで、ヨーロッパの普通の店での接客平均以下の対応をする店を日本で見付けるのは非常に難しいと、そのくらい、特殊スキルを要さない一般レベルの能力が非常に高いのです。(そして第4章で述べたように職人精神も根付く国――いやはや、凄いじゃないですか日本)

 まず、旅行した国々と違って、線で付き合っていたために少々詳しいアイルランドについてですが、例えばアイルランドの郵便局員は、適切な郵送方法を知りません。知っていて然るべき郵送料を知りません。そして知らないことを恥じていません(←最大のポイント)
 実際にあった遣り取りをご紹介しておきましょう。
鷹瀬 「すみません、この小包を日本まで。中身は本です。最も安い方法でお願いします」
窓口 「日本までね。……4.5kgだから148ユーロ(約19,000円)ね」
鷹瀬 「えぇ?! あのー、中身はすべて本ですから書籍小包でお願いします。大体5kg以内で20ユーロ程度って聞いたんですけど」
窓口 「書籍小包? そんなものないわ
鷹瀬 「……え? あ、じゃあすみません、料金表とかありませんか?」
(窓口の女性、面倒そうな顔をしつつも一応料金表を探す。どう見てもそこじゃないだろ、という場所の扉を開けたり、いつまで経っても見付からないが、漸く料金表と思われる小冊子を見つけて、それを私に向かって差し出し……)
窓口 「ハイ、これ」
 あ……私が自分で調べるンすか……。まぁ信用していない彼らに任せておくことも出来ない上に、どうせ後に自分で調べることになるのだから、仕方がない。やりますよ。
 列を離れて、渡された料金表を隈なくチェックします。すると、4.5kgの小包を日本に送る場合、保険がついた速達「EMS」が146ユーロ(※提示された148ユーロより何故か2ユーロ安いし)、保証はないけれど船便よりは早く着く「PRIORITY」が98ユーロ、そしてちゃんとあるじゃないですか、「BOOKS only」が18.85ユーロ。大体「最も安い方法で」と言ったにも関わらず、提示するのは最も高い方法、しかも+2ユーロしてあるという微妙な間違い加減。(恐らく手書きの料金表の6と8を見間違えた模様) しかもそれよりも安い「PRIORITY」の存在を無視し、「BOOKS only」はないものとする……。148ユーロと18.85ユーロっつったら日本円にして約17,000円の差ですよ?! 「知らない」で済まされる問題かっ?! それも、アナタ一応郵便局員なんでしょ?!
 海外でこういう目に遭ったというと、通常「黄色人種だから馬鹿にされた」という可能性もある訳ですが、胸を張って言えます。他のケースは分かりませんが、このアイリッシュに限っては本当に知らなかっただけなんですっ(涙) 弁護している訳ではありません。奴等は本当にこういう人種なんですっ!! 根はイイ人たちですが使えないのですっ!

 怒るというよりぐったりした気持ちで長蛇の列に並び直し、郵便小包発送に再挑戦です。これは留学初期の頃でしたから、「生きた英会話」の訓練にはこのような初歩的な会話の繰り返しが最適。そんな状況を毎度毎度ごく自然に作ってくださるアイルランドに、投げキッスを送りたくなるこの気持ち(泣苦笑) 本当にアイルランドを選んで良かった……と思います……多分。
 どうしても同じ窓口に当たりたかったため、後ろに並ぶ人に順番を譲り、再度同じ窓口、同じ係員に、本人から渡された料金表を持って挑みます。舐められるもんかと、口調は少々キツめで Let's Go!
鷹瀬 「書籍小包は存在します。ここ、見て下さい。5kgまでは18.85ユーロですよ!」
窓口 「あら、本当。ハイ、じゃあ日本までね。18.85ユーロです」
 うわもうアッサリ! 悪びれる気配ナッシング! 業務内容の基本中の基本がままなっていないにも関わらず、それがどうしたと言わんばかりにフツーに私を処理して行くアイリッシュの郵便局員。片や結局面食らった挙げ句にヘドモドして言われた金額を払う小さいジャパニーズ鷹瀬。こら敵いませんがな。

 こんな話は言わば日常茶飯事です。この1件以来、郵便局に行く際は事前に郵送方法と金額を調べ、とりあえず最初は相手の出方を伺って、想定する金額と違う場合には用意しておいた付箋付きの料金表を見せ、「コレでお願いします」とこちらから指定する、という方法を取っていました。そして大体5割の確率で、「料金表を持って来て良かった」と思っていたのです。要するに、そういうことなのです。
 このような話は当然郵便局だけでなく、アイルランドのどこでもかしこでもある話です。
 自転車を修理に出し、「明日までに直す」と言われて翌日自転車を引き取りに行くと当然直っていない。更に翌日訪れるとまだ……。さすがに賢くなって直っているかどうか電話で事前確認してから引き取りに行こうとしたら結果的に2週間待った、という友人もいました。
 別の友人がパブでコーヒーを頼むと、紅茶用のポットに波々と入れられたコーヒーを渡され、飲んでみると味が非常に薄い。仕方ないのでカウンターまでそのポットを持って行き、入れ直してもらうことを期待して店員に「味が薄いんですけど……」と訴えると、店員さん「OK!」とニッコリ笑顔で頷いて、彼女の目の前でそのポットの蓋を開け、後ろの棚にあったインスタントコーヒーを手に取ってポットにざらざらと流し込み、やはり笑顔で「これでどうだい?」――アナタなら黙る以外にどんな反応を返せますか……。
 私個人の経験としては、約5ヶ月間住んだリムリックのフラットで、再三再四大家に頼んだにも関わらず、入居当初から壊れていたコンセントや換気扇が直ることは遂にありませんでした。
 この章の末尾に掲載する関連日記を読んでいただければ分かると思いますが、待たされる、間違われる、知らないと言い切られるのは毎度毎度のことなのです。

 そして、こんな話はアイルランドだけではありません。
 手際は(他のヨーロッパ諸国に比べて)格段に良いけれど、愛想の「あ」の字も知らないドイツ人。
 友人はポストカードを扱う土産屋で「切手ありますか?」と聞いただけで、店員に物凄い恐い顔で「ここは郵便局じゃない!」と怒鳴られビビっていました。こちらが愛想笑いして「アハ」などという雰囲気を見せても、「馬鹿じゃないの?」という噴出しが見えそうな真顔で対応されたことも1度や2度ではありません。
 勿論愛想が良い方もたくさんいて、そうなると能率的に働くドイツ人はヨーロッパの中では最も勤労意欲の高い国だと安心して言えますが、ドイツ留学している日本人に直接話を聞くと「アイツらいかにサボろうかってことしか考えていないよ」と、「それはアイリッシュへの言葉なのに……」と愕然とするコメントも耳に入ります。

 手際の良し悪し以前に、仕事に対して努力をする気が更々ないフランス人。
 知らないよ、僕のせいじゃないしはお得意の口癖。詳細は章末の2002年12月 巴里旅行記 余談@をご覧下さい。

 仕事に対する努力以前に、仕事をしている自覚がないスペイン人。道行く人が普通に振りまいている愛しいほどの陽気さも、何故か職員という立場になった途端に鳴りを潜め、不思議なくらい単なるロクデナシに変化します。(※注:スペイン人大好きですので、念のため)
 スペイン国鉄の窓口はいつも長蛇の列、と「地球の歩き方」に書いてありましたが、この情報の重みを理解したのは22日間のスペイン旅行が始まった翌日でした。首都マドリッドのアトーチャ駅(日本でいう東京駅)の切符売り場には10の窓口があり、その内訳は3つが近距離用、7つが遠距離用です。私はマドリッド郊外の観光のため近距離切符の購入しようと、早朝にこの切符売り場に向かいました。単に時間帯の関係なのか、遠距離切符を求める客は5〜7人と少なく、7つの窓口の内、開いているのはたったの1つ。しかしそれでも充分余裕を持って顧客対応をしていました。問題は対する近距離用窓口です。近距離切符を求める客はどう少なく見積もっても4〜50人……売り場スペースから列がはみ出し、外まで長蛇の列を作っています。そしてそもそもたった3つしかない窓口の内、開いている窓口はたったの1つ。駅員不足による状況なら納得も行きますが、開いている窓口の後ろには、立って雑談している駅員が4〜5人。この長蛇の列を視界に入れながら、雑談できるこの神経っ! いやもうここまで行けば天晴れ!ってなも んですわ。
 面白かったのが、「きっとスペイン人はお互い様だから、こんな状況に腹を立てたりしないんだろうなぁ……」とどうにか苛立ちを紛らわせていると、私の前に並んでいたスペイン人の青年と老女が怒りに満ち満ちた口調で何か話し合い、2人して立って雑談している駅員を指差していました。言葉は分かりませんが、多少拾える単語と雰囲気から推測するに「こんなにたくさんの客が待っているのに、あいつ等一体何してるのかしらっ! ここのサービスは最低よっ!」「全くだよ。僕も毎度毎度のことでウンザリさ! あいつ等は馬鹿なんだよ!」という会話だったのだと思います。スペイン人ですらスペイン人の怠惰さに激怒しているという……。

 また、これはスペインだけでなく、ポルトガルも同じでしたが、情報センターの質が最低でした。情報センターに関しては明らかにアイルランドの方が上です。これも一部、有能な方もいらっしゃいましたので、全員とは言いませんが、「大半が役立たず」とは言えると思います。まず、情報センターの人が情報を知りません。それはアナタの仕事のウチでしょ、ということまで知らないのです……。22日間の旅を終える頃には、「ああ、きっと下手な情報センター職員より、私の方が情報を知ってるな」と思ったほどです。
 情報を知らない、とはどういうことか。具体例をご紹介しましょう。スペイン+ポルトガル旅行道中で何度も経験したことです。例えば、首都マドリッドにいる時に、今後の予定を立てるため情報センターに直参し、旅行者がしそうな極々普通の質問をします。
鷹瀬 「平日にA街からB街に行きたいんですけど、バスと電車どっちがいいですか? 時刻表と価格も教えて頂きたいのですが……」
窓口 「マドリッド以外のことは知りません。A街の情報センターに聞いてください」
 ……………………首都ですよ? 首都でこれですよっ?! 仕方がないので、A街の情報センターの電話番号を聞いて(それはさすがに知っていた)、電話を掛けます。
鷹瀬 「あの×曜日にB街に行きたいんですけど、バスと電車どっちがいいですか? 時刻表と価格も教えてください」
窓口 「時刻表はありますが、価格は分かりません。RENFE(スペイン国鉄)とバス会社にそれぞれお尋ねください」
鷹瀬 「……そうですか。では、時刻表だけ教えていただけますか? ……はい、はい……えーと、ではB街からA街に戻って来る時刻表も教えていただけますか?」
窓口 「それはB街の情報センターに聞いてください」
 ……………………自分の場所から発車する時刻表までは知っていても、自分の場所に入ってくる電車やバスの時刻表は知らないようです……。仕方ないのでバス会社に電話をかけますが、今度は英語が通じません。道中こんなことの繰り返しでした。
 余談ですが、帰国後、このスペイン+ポルトガル旅行で一体どれだけの電話代を使ったのかと調べてみると、宿や情報センターやバス会社に38回、計97分、金額にして42ドル使っていたようです。

 知らないものを知らないと言ってくれるうちはまだマシなのだと思い知ったのは、ポルトガルに入国した初日でした。私は多くの人が絶賛するポルトガルに対して余り良い印象を持てずに旅を終えた人間なのですが、それはそもそも初日に間違った情報を堂々と教えられたことがその後の心象を悪くするケチの付き始めだった気がします。
 多少便が悪くとも、日程的に苦しくとも、ポルトガル一美しい村として知られるモンサラーシュ(Monsaraz)にどうしても行きたかった私は、「地球の歩き方」を参考にあの手この手でスケジュールを考え出し、漸く活路を見出しつつありました。そして、「地球の歩き方」からのしごく真っ当なアドバイス、「時刻表は変わっている恐れがあるので要確認」に従ったことから混乱が始まったのです。
 小さな村モンサラーシュに行くためには、エヴォラ(Evora)という大きめの街を経由せねばならず、まずはエヴォラの情報センターに電話を掛け、モンサラーシュ行きのバスの時刻を確認すると、「地球の歩き方」には「1日13時と17時の2便」と書いてあったにも関わらず、「1日13時に1本だけです」と言い切られました。どうにも腑に落ちず、もう1度同じ情報センターに電話をすると、同じ担当に当たってしまい、非常に不機嫌な声でこう言われました。
担当 「先程も言いましたが、エヴォラからモンサラーシュへのバスは1日1本です」
鷹瀬 「あの、私が持っているガイドブックに1日2本あるって書いてあるんですけど……」
担当 「私が知っているのは1本です。何ならバス会社に電話して、自分で確認してください」
 感じワルッ!と思いましたが、こんなことはこの時始まったことではなかったので、大人しくバス会社に電話すると、今度は英語が通じず、話の途中で切られました……。仕方ないので、今度はモンサラーシュの情報センターの人に聞いてみると、得られた答えはコレ。
窓口 「エヴォラからモンサラーシュへのバスは1日に何本もありますよ
 ……これはこれで信じられないっ(涙) 仕方ないので次なる手段はモンサラーシュに出入しているバス会社の電話番号を聞き、自分で掛けても英語が通じないので、宿の人に聞いて貰って……。するとバス会社は複数あって、そのバス会社は「エヴォラ→モンサラーシュ・ラゲンゴス」のバスだけれど、「モンサラーシュ・ラゲンゴス→モンサラーシュ」のバスに関しては知らないと言われ……。ここで初めて、エヴォラからモンサラーシュへのバスは直通ではなく、
バスA: エヴォラ → モンサラーシュ・ラゲンゴス
     (モンサラーシュ・ラゲンゴスで乗り換え)
バスB: モンサラーシュ・ラゲンゴス → モンサラーシュ

という経路を辿るのだと理解しました。そして漸く、エヴォラとモンサラーシュの情報センターの人が言った内容が大きく異なる理由が分かったのです。そう、エヴォラの人はバスAの情報しか知らず(←でも間違っている)、モンサラーシュの人はバスBの情報しか知らず……どっちも中途半端で役立たずだったという2段オチっ!
 最終的には、精神的にどっと疲れてこれ以上調べる気も起きず、現地に行って、バスがあったら行こう、無かったらエヴォラに泊まろう、宿はその日に決めよう、ということでまとめましたが……。
 ちなみにこの件の正解は、「1日2本」で、「地球の歩き方」の情報が正しいものでした。現地のポルトガル人(しかも情報センターの職員)が言うことよりも、日本人が編集した「歩き方」の方がよっぽど正確です。最初から確認の意味でポルトガルの情報センターに電話なんぞしなければ良かった……。

 よくバックパッカーの間では「地球の迷い方」などと揶揄される「歩き方」ですが、こういう人たちは海外で売られているガイドブックを見たことがあるのかと疑いたくなります。Lonely Planet は別にして、「歩き方」の情報量、データの鮮度は安全大国日本ならではの過保護ぶりで、他の国のガイドブックと比べものにならないほど質が高いのです。「よく地図が間違っている」という話も旅人達の間で頻繁に聞きますが、そこまで正確な情報をたった1冊のガイドブックに頼るヤツは個人旅行なんかすんな、と殺伐とした気持ちになった私は思ったものです。現地で貰う地図だって間違っていることがあるっつーのに、旅行前に手に入る地図の細かい間違いにオタオタすんなっつの! 全く!

 話を見失いつつあるので、思いっきり軌道修正しましょう。
 何にせよ、このようなヨーロッパでの様々な経験を経て、私の勤務態度やサービスに対する見方が変わったのは当然かもしれません。アメリカに行ったことがないので検討の余地はありますが、それでも恐らく日本のサービスは世界一でしょう。日本の公務員は、公務員としては世界一なのかも……とさえ思います。一種ショック療法に近い気もしますが、日本のこの勤労意欲の高さは物凄いのです。公務員の仕事能力の低さに対して、どうしても許せないものを感じる人は、スペインに個人旅行で行ってみるのも良い手かもしれません。

 アイルランドから帰国した翌日、諸手続きのために郵便局を訪れましたが、窓口の局員たちのテキパキした動きにウットリしました。引いた待ち札がたとえ14人待ちだったとしても、日本での14人待ちはスペインでの3人待ちよりも心穏やかに待つことができます。だって、目に映る局員全員があんなにキビキビ動いているのです。何もしていない人なんか見たところいませんよ! もしかしたらフリかもしれませんが、フリをするだけでも頑張ってるってなもんです。実際、私の順番が来るのはあっという間でした。(※注:アイルランド時間で)
 奥の方に見える多少雑談している人たちだって微笑ましいものです。だって手は止まっていないもの! 仕事中であろうと、多少の雑談は大賛成です。人は仕事をするために生まれてきたのではないのです。楽しく豊かに生きるために仕事をしているに過ぎないのです。同僚とのコミュニケーションは大切です。雑談もせずに仕事だけするなんてマシンじゃあるまいし、気持ち悪い!
 ポルトガルのバスの運転手は、運転中でも町で友人を見付けると、バスを往来のど真ん中に停めて雑談してましたよ。アイルランドのバスの運転手だって、他のバスの運転手とお互いに乗客を乗せたままの状態でバスを停め合って雑談してましたよ。何もここまでリラックスせんでもいいから、人としての生活を楽しみつつ仕事をしたって罰は当たらないと思います。心底思います。
 日本人は働き過ぎなんです。休むことに対する計り知れない罪悪感がある。だから幸せ下手なんです。ゆとりを満喫できないんです。人生をエンジョイできないんです。

 正直、ヨーロッパの勤務態度は見習う点は多少あれど、丸ごと真似すべきではないと思います。あそこまで行くのは逆方向のベクトルに遣り過ぎなので、丁度良い折り合いの点を見付け、日本国民が日本の気質に合った形でもうちょっとリラックスするのが私の理想です。
 もしかしたら、私が「クズ」と思っていた公務員たちは、この1億総働き蜂、病める現代日本の意識改革の救世主なのかも……――って、ンなわきゃナイ。仕事中にゆとりを持つのは大事だと思いますが、仕事をしないのは別問題です。ただ、帰国後に郵便局を訪れて感じたことは、「このくらい働けば満点以上だよなぁ」ということだったのです。私の見方が変わっただけではなく、この世知辛いご時世、旧態依然の勤務態度を改めざるを得ない力が働いているのかもしれません。
 だからとりあえず言っておきましょう。ビバ、日本の公務員!

【重大な追記】
 2003年10月10日現在、無所属のワタクシが他人の勤務態度についてどうこう言えるのかこのボケというツッコミを、とりあえず自らしておきます。同じ無所属でも田中真紀子とはエライ違いっス……。

【「働き方」「サービス」についての関連日記】
 2002年5月20日(月)B 「バスパス獲得」
 2002年5月21日(火)@ 「国際学生証獲得」
 2002年7月3日(水)@ 「入国審査とお国柄」
 2002年7月3日(水)A 「予約手続きとお国柄」
 2002年7月12日(金) 「続くビザ取得劇」
 2002年7月15日(月) 「愛蘭風苦情対処」
 2002年10月20日(日) 「もうひとつの悲劇」
 2002年11月13日(水) 「対フランスの交渉」
 2002年12月 巴里旅行記 余談@ 「フランス人の対応」
 2003年1月24日(金) 「働き方 in 愛蘭」
 2003年2月5日(水) 「リビアという国」
 2003年4月11日(金) 「ネット事情 in エニス」
 2003年4月13日(日) 「愛蘭病院体験記」
 2003年5月2日(金) 「日本で働くということ」
 2003年5月28日(水) 「嫌々帰国日決定」
 2003年6月23日(月) 「これぞアイリッシュ!」



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第7章 銀行のサービスと過保護
 15ヶ月ぶりに帰ってきてみれば、ありとあらゆる銀行が合併したり、支店同士が統合したり(銀行合併図にご興味ある方はこちらで、街の銀行所在地がかなり変わっていることに軽く驚いていましたが、「りそな銀行」なるものを発見した時には「ついにはこんなヘンテコな名前の銀行まで……」と愕然としました。(※注:りそなの由来はラテン語で「Resona=共鳴する、響きわたる」だそーです。どーでもいーケド)
 ハッキリ言って、私は最近のひらがな固有名詞ブームが大っ嫌いです。漢字にはたった1文字に意味があり、2文字の熟語ともなれば多くの情報を含有していますが、ひらがなはただの音です。何も伝わらないとは言いませんが、重みも深みも、そして何よりも背景に窺い知れる意味も確実に失われます。漢字を使わずにひらがなを多用するようになったのは、そのまま国が文化を放棄し馬鹿になってゆく表れのようで気が重くなるほどです。

 「優しい感じがする」という理由でひらがなを好むようですが、それこそ「易しい漢字」でもいいから漢字を使え漢字を!ってなモンです。
 大体「あおぞら銀行」なんて、「青空」以外の単語は思い浮かばない上に、「銀行」が読める人であれば「青空」程度の漢字も読めることは間違いないのだから、素直に「青空」にしてしまえば良いものを……一体何のためのひらがなにするのかが分かりません。字面は小学校低学年の習字題目みたいで、それが銀行という決して小学生レベルで対応されては困る場所に堂々と名付けられているのだから、ヘンなの、としか言いようがないのです。

 さて、話を戻しまして。
 私が利用していた銀行も、他銀行との合併はせずとも、支店同士の合併をしたようで、通帳を交換しに窓口まで行かねばなりませんでした。嬉し恥ずかしプーのワタクシ、余裕シャクシャクで平日昼時に銀行に向かうことが出来ます。
 ……自慢にならない自慢は置いておいて。15ヶ月ぶりに日本の銀行に足を踏み入れてみると、やはりその特異性に直ぐに気が付きます。待ち札を引こうと番号発行マシンの前に立ち、とりあえず2つあるボタンの内どちらを押せば良いか、説明を読もうと一拍置いた私に素早く近寄ってくる係員。そして――
係員 「いらっしゃいませ。どういったご用件でしょうか?」
鷹瀬 「え……古い通帳を交換しようかと……」
係員 「それでしたら1番のボタンを押し、番号札をお引きになってお待ちください」
鷹瀬 「ど……どうもわざわざアリガトウゴザイマス……」
 ………………ビックリしました。そうそうそう言えばこんなだった日本の銀行って。と思い出しつつも、今までの15ヶ月間と比較して、天と地ほどのサービスの格差に改めてビックリしたのです。
 最初は本当にただただビックリするだけでしたが、じわじわと後追いで丁度相反する2種類の感情が湧き上がります。
 やっぱり日本は凄い。日本のサービスは間違いなく世界一だわ。人の反応を窺って、問題点を見つけるや否やそれに対するアクションを素早く起こす――こんなことが簡単に出来る人種が日本以外のどこにいるよ? 日本では「水と安全」はもうタダじゃないけど、「勤労とサービス」はタダなんだ。
という感嘆と、
 読めば判るがな。日本語読めるがな。私どこからどう見ても普通に教育を受けてきた日本人やんか。そんなん意気揚揚と説明されんでも、こんな普及してるマシンの使い方ぐらい分かるし、あと1秒放っといてくれたら説明読み終えて1番のボタンを押して出てきた札取って自分の番号呼ばれるまで大人しく待っとるがな。こっちが聞いたときだけ教えてくれれば充分じゃ。
 何なん? その過剰なサービス。誰に対する何のアピール? そんないらんサービス無駄に押し付けといて、その一方でスズメの涙ほどの利息しかくれんてどゆこと? 金利年0.03%ってどゆこと? 100万円1年間預けて300円ってどゆこと? 銀行のサービスって頑張りどころは金利ちゃうのん? 何番のボタン押すかなんて得にもならんコト教えてくれんでエエがな。

という憤りです。
 適度なサービスまでは「凄いなぁ」と尊敬できても、行き過ぎたサービスは「何アナタ、過保護な母親?」と気持ち悪く思うのですが、この「行き過ぎ」の基準は個々それぞれ違うので、私的には充分「行き過ぎ」レベルにあるこのサービスも、他の人にとっては心地良いものなのかもしれません。それが明らかになったのは、奇しくもNY在住の兄との会話からでした。
 帰国した早々、兄から「日本の生活どう? 息苦しいだろ〜」という半分決めてかかっているウキウキしたご機嫌伺いがあり、「いやさ覚悟がデカ過ぎたせいか、それほどでもないんだよ」という駆け出しで始まった会話が、丁度体験したばかりで感想もフレッシュなこの銀行でのサービスに移った時のことです。
鷹瀬 「しかしまぁ日本のサービスは凄いよねぇ。ちょっと過保護すぎる気がするケド」
兄 「でも俺はああいうきめ細かいサービスは日本の美徳だと思うよ」
鷹瀬 「ある程度までは美徳だけど、そこまでやることないじゃんってなレベルだと思うよ。あんなだから自分から動けないマニュアル人間が増えるんじゃないの?」
兄 「そうかねぇ。俺は純粋に良いと思うけどね。あんなこと、アメリカ人は絶対に真似できないし」
 ……気持ち悪いと思わない人もいるんですね。しかもこんなに身近に。
 それとは別に、ヨーロッパだけでなくどうやらアメリカもサービスに関しては日本をはるかに下回るようで、やはりこの猛烈なサービスは日本独特のものなのかーという考えを強めます。

 良いか悪いか簡単に答えが出る問題ではなく、また答えを出すような問題でもないため、この話は宙に浮いたまま頭の片隅に追い遣られていたのですが、その後、ふとしたことから母校を訪れ、中学1年の時の担任の先生と話し、更に同校に新米教師として勤める同級生と話し、そして全く関係ない友人から入ってきた話によって、大きな問題の根底を見た気がしたのでした。
 この一連の話を時系列でお届けしましょう。
鷹瀬 「いや〜でも、思っていたより生徒たち(中高生)が素朴なんで、なんかほっとしましたよ」
先生 「そう? でもまぁウチの生徒ってのもある意味限られているからねぇ。これが世の中の平均とは思わないけど」
鷹瀬 「ま、そうかもしれないですけど。それでももう携帯電話はほとんど100%、ピアスは80%って感じですね。携帯はどうしてますか? 禁止はせずに自主性に任せるってコトで?」
先生 「うーん、一応中学までは学校には持ってこない、高校からは自主性に任せるってことにしてるけど、実際はね……。結局、小学校の時に親が持たせるらしいのよ。塾通いで心配だからって。でも、中学に入ってもうその心配はないんだから、中学の間は止めようね、って話はしているんだけど、部活の連絡が携帯だったりするし、合宿なんかに携帯忘れるともうパニックよ。たった1週間かそこらでも、携帯がないと生きて行けない!って勢いね」
鷹瀬 「はー。……私たちが在学していた頃と、何が一番違うって思いますか? 92年に卒業したんだからもう10年以上経ってますけど……」
先生 「そうねぇ……全体的に幼くなったかな。あなたたちが中1でやっていたことを、今の子は中3でやっと出来るって感じ。もう今じゃ実年齢から3歳マイナスして付き合うようにしてるわ。あなたたちの学年は放って置いたら勝手に決めて勝手に動いていたじゃない? でも今は次に何をするべきか自分で考えないのよね。答えを待っているの。――あ、そう言えばHさん(同級生)にはもう会った? 彼女も今や立派な先生よ。私もう直ぐ行かなくちゃならないから、彼女と会って行きなさいよ」

<略>

鷹瀬 「そっかー、じゃあ社会人経験を5年くらいしてからここに戻って先生してるのかー」
H 「うん。舐められれるけどねー」
鷹瀬 「ま、親しまれているということで。しかも見た目あんまり生徒と変わらないもんねぇ。――でも、どう? イマドキの子って。私、今日校内にいる生徒たち見て、結構思ってたよりも純朴そうで嬉しくなっちゃったんだけど。ほら、世の中見ると中高生と言えば『荒んでる』とか思うじゃない? でもそんなことなさそうじゃない?」
H 「そうだね。派手な子もいるけど、ごく一部だし、みんな素直は素直だよ。世の中の中高生による凶悪犯罪なんかをテーマに話し合うこともあるけど、『どうしてこんな酷いことが起こるんだろう』ってショック受けてるし」
鷹瀬 「そうなんだ。……何かこう、私たちの時代との違いとか感じる?」
H 「うーん……あんまり無いかなぁ。私たちも大概先生の話なんか聞いてなかったしねぇ。――あ! でもそうだ。私が最初に一番驚いたのは、手を挙げないでいきなり質問する子とかいるの」
鷹瀬 「うん、それが? 別に良くない?」
H 「悪くはないけど、私たちの時はやっぱり質問があったら一応手を挙げてタイミングを計ったり、意思表示をしたじゃない? そういうのがナイ。質問したい時にいきなりする。だから慣れない頃はビックリしたよ。あと、構ってちゃんが多いかな」
鷹瀬 「構ってちゃん?」
H 「うん。常に常にこっちから『どうしたの?』『大丈夫?』って話し掛けてあげないと駄目な子が多いよ。『構って構って』って感じで、教師にママを求めてると言うか……。家での態度をそのまま学校でもしてる、って感じ」
 学校と言う年齢の同じ若者が毎年やってくる空間で働く方たちの絶対比較なので、私の目で見る相対比較の「下の世代への批評」よりも確かかな、と思っていちいち現状を「どう思う?」と聞いているのですが、ここまでの話は、ある程度予想通りという感じで、私の中にある銀行の過剰サービスの話とは直結しませんでした。それとはまた別に、単に「どんどん幼くなってゆくコドモたち」というカテゴリで話を聞いていたに過ぎません。
 いつの時代でも、上の世代は常に下の世代に「軟弱になった」「常識を知らない」「礼儀を知らない」というマイナス評価を下すものです。私が下の世代に対して「幼い」と感じても、上の世代も私たちの世代に対して同じように「幼い」と感じているのでしょうし、実際問題、昔は12歳で元服していたのが今は20歳でようやく成人。しかもその成人となる日に行われる各地の式典で、参加者である20歳が着実に子供帰りしている様子が毎年報道されているのですから、もはや事態は「驚く」状況を通り越し、「確認する」という域に達しているのです。

 中高生の幼児化の話を聞いたなら、当然大学生の幼児化も推して知るべしだったのですが、具体例を聞くまでピンと来ないのは、その程度がちょっと想像を絶しているからです。
 現在の大学生事情については、理系大学の研究室で助手をしている友人と、文系大学の事務員をしたことがある友人、大学事務員の友人を持つ友人から取れたて生情報を仕入れております。聞く毎に暗くなる大学事情は、こんな感じです。
「前にね、教授がある女学生の卒論に対して、本当に普通の口調で『君、こんな内容じゃ卒業できないよ』って言ったのね。だってその論文、本当に話にならないレベルだったんだよ。そしたらその女の子、いきなりわーって泣き出して、研究室を飛び出して廊下に出ちゃって……。今ってただでさえ大学教授のセクハラとか騒がれてるじゃない? 女の子が泣きながら研究室から飛び出してくればそりゃ異常事態でしょ。もう学内で大問題になっちゃってさ。それ以来、教授も学生に注意するのが恐くなっちゃって、物凄く優しく言ってあげて、それでも想像も出来ないようなことで傷付いて泣いちゃう学生が多いから、学生との面接の時には必ず次に受ける学生を同席させて、ドアも締めないようにして気を遣っているんだよ」

「今ってさ、大学での就職面接のリハーサルに親が来るんだよ? 教授と学生と、学生の親で三者面談! 信じられる?」

「良い子もいるけどさー、やっぱり年々馬鹿になってると思う。だって理系の大学だよ? 受験して合格して来てる訳でしょ? なのに今度の新入生の中に2次方程式が解けないヤツがいるんだよ……」

「新入生ってさ、毎年ちょっとずつ度肝を抜くようなコトを仕出かす人が必ずいるんだけど、その年はついに合格者に配布される書類一式をなくしました、って学生が出て、もう事務員たちで『ついにここまで来たかー』って大盛り上がりだったよ。またその書類無くした学生の態度が悪くてさ。『お手数掛けてすみません』とか、侘びの言葉は一切無かったね。ま、本当に悪いと思ってないんだろうけど。『無くしたんですけど、一部送って下さい』だって」

「最近すごく思うのは、自分から声を掛けられる学生が少なくなったってことかな。学生が学生課の窓口の前に立つじゃない? 用があって来たんだろうに、ずーっと黙って突っ立ってるの。そんで事務員が『何か御用ですか?』って聞くと、名前も言わずに用件を言い始めて。しかもタメ口の奴も時々いるし。『××先生ってどこにいるの?』とか。『お名前と学部と学年よろしいですか?』って聞くと、漸く名乗るって感じ」

 どれもビックリするような話なのですが、特に最後の件に関して、突如銀行の過剰サービスの話と結び付いたのです。
 もしかして日本が駄目になりつつあるのは、日本社会独特の過剰サービスの弊害ではないでしょうか。はたまた、駄目な思考回路だからこそ、異様なサービスを繰り広げるのか……。もしくは駄目と過剰サービスが絡み合った相乗効果という可能性もありえます。
 よくよく考えてみると、日本現代文化を代表する「残業」も一種の過剰サービスですもんね。

 とにもかくにもこの国では、親が子供を甘やかすばかりでなく、社会が人々を甘やかしているのです。それも本人のためにならないようなヘンな甘やかし方で。そして甘やかす一方で、子供には塾や習い事、大人には残業や付き合いという過度のストレスを与え、人間生活において最も大切な「家族の絆」とか「人生を豊かに過ごすための時間」という大事な部分に全く余裕がないのを誤魔化すかのように、歪んだ形で手厚い保護を加えるのではないかとさえ勘繰ってしまいます。
 サービスをなくせと言っているのではありません。過剰なサービスは誰のためにもならないと言っているのです。
 本当に必要なサービスとは、黙って立っている相手に「どうしたの?」と聞いてあげることではありません。本人の力で解決できることを先回りしてしてしまうことでもありません。相手がニッコリしてしまうようなことを、相手の状況を邪魔せずにすること――これがサービスの基本です。
 サービスよりもっと大事でもっと基本である筈の福祉すらままならないこの日本において、過剰なサービスを垂れ流している余裕は無いのです。この国で一般的な老人が余裕こいてニッコリ笑っていられますか。病気になったらどうしよう、いざと言う時どうしようと、老人ばかりか中高年、若者までが暗い将来への不安に押し潰されそうになっているではありませんか。

 他人の一挙一動を気にする傾向の強い日本人は、それ故によく気が付き、細やかな神経を持って、相手を喜ばせる付加価値的なサービスが得意です。しかし、本当の意味で困っている人、自分の力ではどうしようもないことで苦しんでいる人に手を差し伸べるのは、とても下手だと思います。肝心な場面の見て見ぬフリは、人々どころか政府の得意技ではないですか。
 日本人が持っている木目細やかで繊細な神経は、他の国では類を見ないものだと、私は少ない経験上でも信じています。ただこの優しさがどうして人々の生活を良くするための根本的な部分に働かないのか、それがとても残念なのです。
 日本には正しく使われていない能力がたくさんあります。無駄な残業、過労死という無駄死に、ゆとり教育による子供の脳の持ち腐れ、日本にしかない独特な美しい自然の破壊、アメリカ模倣の末の文化破壊、要らない道路の建設――過剰なサービスとは、これらすべてを含みます。
 日本が元来より持つ自然と文化、人々の性質、知性――すべては失われつつありますが、無駄なことを一切止めて、正しい場所に正しいエネルギーを注いだら、日本はきっとどの国よりも素晴らしい国になるのになぁ……と、私が見たことのない日本に想いを馳せるのでした。


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